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『吾妻鏡』と『北条九代記』によると・・・ 1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で舞った静御前。 若宮の回廊に舞台が設置され、工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。 静は、白雪曲(はくせっきょく・古琴曲)に舞うかのごとく白い袖をひるがえし、歌声は黄竹子(こうちくし・呉声歌曲)を歌いあげるかのように美しく、その声は空いっぱいに響き渡り、梁の塵を動かすほどの見事さで、見ていた者は上下の別なく感動。 しかし、静が歌ったのは義経を慕う歌。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい) しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに) 頼朝は、 「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、離別の悲しさを歌うとは、とんでもない」 として激怒しますが・・・ 政子は頼朝にこう言います。 「かつて流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、『平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる』と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。 それでも私はあなたを想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、あなたの所へ逃げていったのです。 石橋山の戦いの折には、一人で走湯権現に逃れ、あなたの行方を知りたい一心で、夜となく昼となく肝をつぶし、毎日生きた心地もしませんでした。 今の静の胸中は、かつての私の胸中と比べて「そうだろう」と思わせるものです。 静の貞節さを思うと、まことに趣深く感じられます」 この政子の話に頼朝は怒りを解いたのだとか・・・ そして、卯花重(うのはながさね)の衣を脱いで、御簾の外に出すと、静はこれを頂戴してうちかぶり退場したのだといいます。 |
義経と静御前は吉野山で5日間と時を過ごして別れたのだといいます。 勝手神社や金峯神社などに義経と静の伝説が残されています。 |
静御前が舞った若宮回廊は、1191年(建久2年)の鎌倉大火で焼けてしまいました。 その跡に建てられたのが舞殿。 4月の鎌倉まつりでは「静の舞」を観ることができます。 |
〜鎌倉まつり静の舞の開催日等〜 |
2022年2月8日、鎌倉市観光協会の方から本ページの記載についてお電話をいただきました。 「静の舞」が奉仕される「鎌倉まつり」の開催時期・期間については、4月の第2日曜から第3日曜が恒例となっていましたが、開催時期・期間の決まりはなく、毎年理事会で決定されるそうです。 「静の舞」につきましては、4月の第二日曜日に奉仕されるのが恒例となっていたため、その旨を記載してまいりましたが、2022年以降につきましては正式発表で確認されるようお願いいたします。 |
梶原景茂に口説かれた静御前〜私は源義経の妾です!〜 母と子との悲しい運命〜源義経の子を産んだ静御前〜 『義経記』が伝える日本一の静の舞 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 鎌倉駅東口から徒歩10分 |
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