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六角堂(頂法寺)は、587年(用明天皇2年)、聖徳太子が念持仏の如意輪観音を祀る堂を建立したことに始まると伝えられる。 四天王寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた太子は・・・ 水浴のため如意輪観音像を傍らの木に掛けたところ、像が動かなくなり、この地にとどまって衆生を救いたいと告げたのだという。 そして、唐崎明神のお告げで得た杉の霊木で六角形の堂を建立したのだとか。 そのため六角堂と呼ばれるが、正式名称は紫雲山頂法寺。 観世音菩薩の霊験所として信仰され、藤原道長の権勢の中で「賢人右府」と呼ばれた藤原実資は60回を超える参詣をしていたのだという。 九条兼実・平徳子(建礼門院)なども参詣し、後白河法皇は『梁塵秘抄』に観音菩薩の効験あらたかな寺として清水寺・石山寺・長谷寺・粉河寺・西寺・六角堂を挙げている。 寺の縁起によると、1195年(建久6年)に源頼朝が参詣しているのだという。 1201年(建仁元年)には、比叡山で修行をしていた親鸞が百日間参籠し、如意輪観音のお告げにより法然に師事したのだと伝えられている。 北条時政の婿で1205年(元久2年)の牧氏の変で滅ぼされた平賀朝雅の屋敷はこの付近にあったらしい。 「わが思う心のうちは六の角 ただ円かれと祈るなりけり」 (西国三十三所第十八番) 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
藤原実資の観音信仰と二人の娘〜清水寺・長谷寺・石山寺・六角堂〜 清水詣・石山詣・初瀬詣〜平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺〜 |
現在の本堂は、1877年(明治10年)の再建。 六角形は「六根清浄を願う」という祈りを込めた形。 |
本尊は、秘仏で聖徳太子の念持仏と伝えられる如意輪観音坐像。 厨子の前に御前立が安置され、脇侍は毘沙門天立像(重要文化財)と地蔵菩薩立像。 |
四天王寺は、聖徳太子建立の七大寺の一つで、日本仏法最初の官寺。 |
聖徳太子の二歳尊像、十六歳尊像、騎馬像を安置する。 |
六角堂は華道・池坊の発祥の地で、その名称は聖徳太子が沐浴した池に由来している。 |
唐崎社は六角堂の鎮守で、祓いの霊場として知られる琵琶湖畔の唐崎神社の神が祀られている。 祇園社(八坂神社)と天満宮(北野天満宮)が合祀されている。 |
唐崎神社は、比叡山の守護神・日吉大社の摂社。 藤原兼家の妻の一人・藤原道綱の母や藤原道長が参拝した社。 紫式部の『源氏物語』にも登場する。 |
室町時代から江戸時代にかけて、六角堂では八坂神社の祭礼・祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われていた。 |
親鸞の百日参籠は、「夜に比叡山を下りて、朝には山に戻る」というものだったのだという。 親鸞堂には、草鞋を履いて比叡山から六角堂へ向かう姿の「親鸞草鞋の御影」と、如意輪観音からのお告げを受けている姿の「親鸞夢想之像」が安置されている。 |
親鸞が比叡山との往還に使ったのが雲母坂(きららざか)。 九十五日目の暁に如意輪観音のお告げを受けて、法然に師事する決意をしたのだという。 |
へそ石は、京都の中心であるといわれている。 桓武天皇の平安遷都の際、本堂の位置に道を通すために祈ったところ、堂が少し北へ移動したのだという。 そして、もとの位置には石が一つ残されていたのだとか。 |
嵯峨天皇は如意輪観音からのお告げにより、六角堂の柳の下にいた女性を妃に迎えたのだという。 そのため、縁結びの柳と呼ばれるようになった。 おみくじを引いて結ぶと良縁の御利益があるのだとか。 |
京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248 |
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