|
雲母坂(きららざか)は、修学院離宮の脇から比叡山山頂へ至る古道。 名の由来は、都から見ると「雲が生じるように見えたため」といわれている。 都からの勅使や修行僧が行き来したため「勅使坂」「禅師坂」とも呼ばれた。 |
音羽川に架かる雲母橋が登山口。 音羽川は比叡山南麓を水源とする川で、流域には「音羽の滝」があったのだという。 「落ちたぎつ 滝の水上 年つもり 老いにけらしな 黒き筋なし」(壬生忠岑)。 |
比叡山登山口の近くには不動明王を祀る雲母寺(うんぼじ)があった。 そのため雲母坂は「不動坂」とも呼ばれた。 雲母寺は、千日回峰行の祖とされる相応が開いた寺院だったが、明治に入って廃寺となっている。 |
赤山禅院 |
雲母不動堂 |
赤山禅院は、慈覚大師円仁の遺言により、安慧が赤山大明神を勧請した寺。 赤山禅院の雲母不動堂は、雲母坂にあった雲母寺の本堂だった建物。 |
浄土真宗を開いた親鸞は、1181年(治承5年)に9歳で青蓮院の慈円のもとで出家し、比叡山に登って20年余りの修行を積んだ。 1201年(建仁元年)、29歳の時に六角堂で百日間の参籠するため下山。 参籠は、「夜に比叡山を下りて、朝には山に戻る」というもので、往還に使ったのが雲母坂だったのだという。 九十五日目に如意輪観音のお告げを受けた親鸞は、法然に師事することを決意したのだと伝えられている。 |
六角堂は、聖徳太子が如意輪観音を祀る堂を建立したことに始まる観音霊場。 藤原実資は60回を超える参詣をし、九条兼実・平徳子(建礼門院)・後白河法皇も信仰した。 |
雲母坂は、紫式部の『源氏物語』ゆかりの古道でもある。 宇治を舞台に描かれた「宇治十帖」では・・・ ヒロインの浮舟は、薫と匂宮の間で悩み苦しみ宇治川に身を投じたが、横川の僧都に救われて比叡山の麓の小野の地で尼となって暮らすことに。 横川の僧都は、比叡山の横川で修行をした恵心僧都源信をモデルにしているといわれる。 かつて、大原から松ヶ崎の辺りまでは小野の里と呼ばれ、雲母不動堂がある赤山禅院は平安前期の公卿・南淵年名の小野山荘の地に建てられたのだという。 『源氏物語』〜夕霧の巻〜で一条御息所と落葉宮が移り住んだ「小野の山荘」は、修学院離宮付近とも三千院付近ともいわれる。 |
比叡山の横川にある恵心堂は、藤原兼家(道長の父)の創建。 恵心僧都源信が修行し、『往生要集』を著したことで浄土信仰発祥の地といわれる。 |
恵心院 (宇治市) |
浮御堂 (大津市) |
宇治の恵心院は源信が再興した寺。 琵琶湖に浮かぶ浮御堂は、横川から琵琶湖をながめていた源信が衆生済度と琵琶湖の湖上安全を祈願して創建した満月寺の堂。 |
三千院 |
往生極楽院 |
三千院は、最澄が比叡山の東塔に開いた円融院(円融房)が始まり。 境内の往生極楽院は、源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられている阿弥陀堂。 |
京都市左京区左京区修学院音羽谷 「源氏物語ゆかりの地の説明板」は、関西セミナーハウス前に建てられている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|