|
執権とは、鎌倉幕府の執権は「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」のこと。 源頼朝が生存していた頃は、将軍独裁政権であったため、執権という職はさほど重要職ではなかったが、頼朝亡き後、どのようにして北条執権体制が確立されていったのであろうか。 鎌倉幕府においては、政所別当を執権と称していたらしい。 初代政所別当は大江広元だが、この広元を初代執権とするか否かは別問題として、「政所別当」という地位に注目すると、頼朝亡き後の北条氏の行動が理解できるかもしれない。 |
初代執権:北条時政 |
北条時政は伊豆国の北条を領していた武将。 1180年(治承4年)に挙兵した源頼朝を支援。 娘の北条政子は頼朝の妻。 1185年(文治元年)の守護・地頭の設置(文治の勅許)では、軍勢を率いて上洛した。 源頼朝亡き後、二代将軍源頼家の独裁を停止し「宿老13人の合議制」を提案。 梶原景時、比企能員といった有力御家人を滅ぼした。 比企氏を滅ぼしたのを機に「政所別当」に就任。 三代将軍源実朝の補佐役として幕府の実権を握った。 |
時政が奥州征伐の成功を祈願して建立。 |
宿老13人の合議制 梶原景時の変 阿野全成の誅殺 比企氏の乱 畠山重忠の乱 |
畠山重忠の乱後、無実の畠山重忠・重保父子を謀殺した上、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てたことで、北条政子・義時姉弟によって出家させられ、鎌倉を追放された。 1215年(建保3年)1月16日、伊豆国の北条の地で死去(享年78)。 墓所は願成就院。 |
二代執権:北条義時 |
北条義時は、時政の次男。 畠山重忠の乱を機に父時政を追放し「政所別当」となる。 その後、侍所別当であった和田義盛を滅ぼし、その職「侍所別当」も兼ねることになる。 これ以降、「政所別当」と「侍所別当」を兼ねる者が執権となり、以後、「政所別当」と「侍所別当」の職は北条得宗家が世襲。 義時の時代の最大の事件は、源実朝の暗殺。 源氏の血統が絶えると、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を下し、「承久の乱」が起こったが、義時は子の泰時らを派遣し、これを鎮めた。 乱後、京都には六波羅探題が設置されている。 四代将軍には、京より藤原(九条)頼経が迎えられた。頼経は、頼朝の妹の曾孫にあたる(参考:東福寺)。 1224年(元仁元年)6月13日死去(享年62)。 2005年(平成17年)、北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘されている(義時の墳墓跡)。 |
源実朝暗殺事件の際、義時を救った戌神将の伝説が残された寺。 |
畠山重忠の乱 和田合戦 源実朝の暗殺 承久の乱 六波羅探題 正室:姫の前 |
法華堂跡 北条義時やぐら 釈迦堂 釈迦堂切通 大円寺 (東京都目黒区) 北條寺 (伊豆の国市) |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
三代執権:北条泰時 |
北条泰時は義時の長男。 伯母の北条政子が亡くなると、源頼朝以来の大倉幕府を宇津宮辻子に移して政務を執る。 裁判の迅速化を図るための連署や評定衆の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)を制定し、本格的に北条執権体制の基礎を固めていく。 一方で、和賀江嶋を築港し、巨福呂坂や朝夷奈切通を開いた。 1242年(仁治3年)6月15日死去(享年60)。 墓所は常楽寺。 |
泰時が妻の母の供養のために建てた粟船御堂を前身としている寺。 |
承久の乱 連署の設置 評定衆の設置 御成敗式目 伊賀氏の変 寛喜の大飢饉 |
和賀江嶋 巨福呂坂 朝夷奈切通 |
四代執権:北条経時 |
北条経時は泰時の孫。 泰時の子時氏が早くに死んだため、四代執権には孫の経時がなった。 経時の時代には、将軍藤原(九条)頼経が実権を掌握しようとするなど反執権の勢力が盛り上がりをみせるようになる。 経時は、将軍頼経を下ろし、頼経の子頼嗣を五代将軍とすることに成功したが、なお頼経が鎌倉に留まっていたため、頼経追放を計画したが失敗する。 それらの心労が重なり病に倒れ、執権職を弟の時頼に譲った。 1246年(寛元4年)閏4月1日死去(享年23)。 |
光明寺の裏山には、経時の墓がある。 |
五代執権:北条時頼 |
北条時頼は泰時の孫。 経時の弟。 時頼は、前将軍頼経を鎌倉から追放し、反執権勢力を一掃した。 さらに有力御家人三浦泰村を滅ぼすとともに、将軍頼嗣を追放し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を擁立した。 時頼の時代より、執権政治は「得宗専制政治」へと変化する。 裁判のさらなる迅速化のため、評定衆の下に引付を設置。 宋の蘭渓道隆を招き建長寺を建立した。 1263年(弘長3年)11月22日死去(享年37)。 墓所は明月院(最明寺跡)。 |
時頼が創建した我が国初の禅専門道場。 |
宮騒動 宝治合戦 親王将軍 引付の設置 商人に対する法令 |
常楽寺梵鐘 建長寺梵鐘 (国宝) |
五代執権北条時頼は、1256年(康元元年)に北条長時に執権の座を譲る。 これは、嫡男時宗(のちの八代執権)が幼少だったための措置。 1264年(文永元年)、長時が病により辞任すると、七代執権には、北条政村が就任した。 そして、1268年(文永5年)、蒙古襲来の危機に際して、八代執権に北条時宗が就任する(七代執権をつとめた政村は連署になった。)。 |
八代執権:北条時宗 |
北条時宗は時頼の嫡男。 兄時輔が側室の子であったことから時宗が嫡子となり、六代執権北条長時、七代執権北条政村を経て八代執権となる。 時宗の時代には二度にわたる元の襲来があった(元寇)。 その間兄時輔の誅殺や元の使節杜世忠らを殺害するなど激動の中を生きた。 宋の禅僧無学祖元を招き円覚寺を建立。 1284年(弘安7年)4月4日死去(享年34)。 墓所は円覚寺塔頭佛日庵。 |
時宗が元寇の犠牲者を敵味方なく供養するために創建した寺。 |
北条時宗の誕生と鶴岡八幡宮の隆弁 蒙古襲来(元寇) 二月騒動 元使塚(常立寺) 莫煩悩〜禅に求めた不動心:北条時宗と蒙古襲来〜 |
九代執権:北条貞時 |
北条貞時は時宗の嫡男。 内管領の平頼綱が勢力をのばし、その讒言により有力御家人安達泰盛が滅ぼされる。 その後、頼綱の恐怖政治が開始されるが、貞時は頼綱を誅殺し、執権体制(得宗専制政治)を整える。 1301年(正安3年)に執権を退いた貞時は、その後、享楽的な生活をしていたといわれている(政連から素行の改善の諌書が提出されている。)。 1311年(応長元年)10月26日死去(享年41)。 |
時宗、貞時、高時三代の廟所。 |
霜月騒動 平禅門の乱 禅僧への禁制 永仁の徳政令 |
円覚寺梵鐘 (国宝) |
1301年(正安3年)、九代執権北条貞時は執権の座を北条師時に譲った。 その後、執権は、宗宣、煕時、基時を経て、十四代執権に北条高時が就任する。 |
十四代執権:北条高時 |
北条高時は貞時の四男。 14歳で執権となるが、実権は内管領の長崎円喜(平頼綱の一族)らが握っていた。 『太平記』などでは、闘犬や田楽などに興じた暴君などとの批判もあるが、病弱で24歳で執権職を辞している。 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めによって、得宗北条高時をはじめとする北条一族が東勝寺で自刃。 これにより鎌倉幕府は滅亡。 のちに高時の遺児時行が中先代の乱を起こすが、捕らえられ龍ノ口で斬首されている。 |
高時とその一族を含む約870名が自刃した場所。 |
貞時十三回忌供養 文保の和談 |
1326年(嘉暦元年)、十四代執権北条高時が執権を辞任すると、北条(金沢)貞顕が十五代執権となるが、嘉暦の騒動によって10日余りで辞任。 十六代執権に北条(赤橋)守時が就任した。 この守時が鎌倉幕府最後の執権となった。 |
洲崎古戦場跡 |
北条守時の墓 |
幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、京で「建武の新政」を開始した。 鎌倉には、足利尊氏の弟の直義が詰めていたが、北条高時の子の時行が反乱(中先代の乱)を起こしたため、幽閉していた後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害し鎌倉を離れた。 その後、尊氏が時行を追い出して鎌倉に入ったが、後醍醐天皇は尊氏追討の院宣を新田義貞に下し、これを鎌倉に向けた。 尊氏が義貞を退け京に入ると、後醍醐天皇は吉野に逃れた(南朝)。 これにより京では新たな天皇が就任し「南北朝の時代」となる。尊氏は、北朝より「征夷大将軍」に任ぜられ、室町幕府を開いた。 南朝と北朝は、室町幕府三代将軍足利義満の時代に統一される。 将軍となった足利尊氏は、鎌倉に子の基氏を派遣し「鎌倉公方」として、関東と甲斐、伊豆を統治させた。 鎌倉公方の補佐役である「関東管領職」には上杉憲顕が任ぜられ、以後管領職は上杉氏が世襲する。 鎌倉では、時代を経るにつれ足利氏の力が衰え、代わって上杉氏の力が強まり、京都でも「応仁の乱」が起こることによって「戦国時代」へ突入していく。 下剋上の世で勢力を伸ばした小田原の北条氏(鎌倉時代に執権をつとめた北条氏とは別)が関東を治めるようになると、鎌倉の地は政治から離れ衰退の道を歩んでいく。 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|