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1242年(仁治3年)、三代執権北条泰時が亡くなると、嫡子の時氏がすでに亡くなっていたため、孫の経時が四代執権となった。 一方、四代将軍藤原(九条)頼経は、自らが実権を握るべく、かねてより北条得宗家に不満を持っていた名越光時らを糾合していった。 そのことに危険を感じた経時は、1244年(寛元2年)、将軍職を頼経からその子頼嗣に譲らせた。 その後、経時は病気となり、1246年(寛元4年)、北条得宗家の秘密会議(深秘の御沙汰)により、経時の弟時頼が五代執権となった。 経時はこの後すぐに亡くなっている。 名越光時は、これを好機とみて前将軍頼経らとともに時頼打倒を企てるが失敗に終わり、伊豆の江間に流された。 前将軍頼経も鎌倉を追放されている。 この一連の出来事を宮騒動という。 北条氏の最大の敵三浦氏は、この宮騒動では姿を見せていないが、一族の三浦光村は、頼経護送に同行し、「再び鎌倉にお連れする」と誓っていたという。 三浦氏は翌年に起こる宝治合戦で滅ぼされている。 |
藤原(九条)頼経は、京都五山第四位の格式を誇った東福寺を創建した九条道家の三男。 道家の母が源頼朝の姪だったことから、1219年(建保7年)に源実朝が暗殺された後、四代将軍となるために鎌倉に迎えられた(当時2歳)。 元服するまでの間は、北条政子が後見役を務めている。 二代将軍頼家の娘竹御所を妻とし、北条得宗家の傀儡将軍として過ごしていたが、次第に反得宗勢力と糾合し実権を握ろうと考え始めていた。 |
※ | 宮騒動後も名越氏と得宗家との対立は続き、光時の弟教時は二月騒動で誅殺されている。 |
宮騒動によって頼経が鎌倉を追放されると、父道家も関東申次を罷免され謹慎させられた。 その後、頼経と道家が了行の幕府転覆計画に加担したとして、頼経の子で五代将軍だった頼嗣が鎌倉を追放された(1252年(建長4年))。 この年の2月21日、九条道家が死去。 頼嗣のあとの将軍には、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王が迎えられている。 それから4年後の1256年(康元元年)8月11日には頼経が亡くなり、同年9月25日には、頼嗣も亡くなっている。 了行法師の謀反 |
京都五山の一つ東福寺は、頼経の父道家の創建。 特別由緒寺院の最勝金剛院は、九条家の菩提所。 |
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