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武家政権の本拠地として発展した鎌倉には、多くの商人が集まった。1215年(建保3年)には、町人以下鎌倉中の諸商人の人数を定める法令が出され、結城朝光がこれを奉行している。 |
※ | 商人の数を減らしたのか、あるいは、特定の者のみに限定されたのかなど、どのように商人の人数を決定したかについては不明。 |
1240年(仁治元年)、強引に商品を買いあさる「押買」(おしかい)を禁止する法令が出された。以後、「押買」の禁令は度々出され、対等な取引が行われるよう努められた。 |
※ | 「押買」(おしかい)とは、売主が売らないといっているものを、無理やりに買い求めることで、「押売」の逆。 |
1251年(建長3年)、鎌倉中の小町屋が指定され、指定された場所以外での商業が禁止された。 |
◎指定された地域 大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上 ◎その他の規制 ・牛を小路につなぐことを禁止 ・小路の清掃義務 |
※ | 「亀谷辻」は現在の壽福寺の辺り、「和賀江」は材木座、「気和飛坂山上」は仮粧坂の山上と考えられている。 「大倉辻」については、現在の浄明寺付近ではないかと考えられている。 |
米町(穀町ともいう。)、魚町(いおまち)は、大町の中にあった地名とされている。 魚町は大町四ツ角の南、米町の東にあったということであるが、甘縄神明神社の辺りだったとする説もある。 米町は、下馬四ツ角から大町ツ角の間と考えられているが、いずれにしてもその正確な場所は不明。 |
なお、1265年(文永2年)には、改めて小町屋の指定を行っている。 |
◎指定された地域 大町 小町 魚町 穀町 武蔵大路下 須地賀江橋 大倉辻 ◎その他の規制 ・家の前の大路を掘って小屋をつくることを禁止 |
※ | 「武蔵大路下」は、仮粧坂あるいは亀ヶ谷坂の下辺りと考えられ、「須地賀江橋」は筋違橋付近のこと。 |
沽酒とは、酒の売買のこと。 1252年(建長4年)9月、諸国の市での酒の売買が禁止された。鎌倉中の民家の酒壺37,274壺も摘発されている。 翌月には、酒造を禁止し、酒壺も一軒一壺を除き破却させた。 |
※ | 酒壷の数で当時の鎌倉の民家戸数がおおよそ予測できる。人口となるとこの数倍となるのであろうか。酒造の禁止については、コメの不作に対応するためだったといわれている。 |
1253年(建長5年)、雑物の値段を定め、高値となることを抑制し、押買を禁止した。また、和賀江津の材木の寸法が定められた。 雑物の直法は、翌年廃止されている。 |
炭一駄代百文 薪三十束(三把別百文) 萱木一駄(八束代五十文) 藁一駄(八束代五十文) 糠一駄(俵一文代五十文) |
榑(くれ)一長さ八尺 「榑」とは、柱用の皮のついたままの材木 |
※ | 「材木の寸法」については、短くて建築の用にできないものが出てきたことから定められたもの。 |
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