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二代執権北条義時は、現在の宝戒寺の辺りに小町亭を建てた。 もとは、大倉御所の横(岐れ道辺り)に住んでいた。 |
義時の嫡男泰時は、和田合戦の起こった1213年(建暦3年)には、大倉亭に住んでいたといわれている。 |
1219年(承久元年)、三代将軍源実朝が暗殺されると、義時は、大倉御所の近くである大倉亭に戻っている。 北条政子も東御所から大倉御所に入り、幕府の危機に備えた。 この時、泰時は小町亭に移ったものと考えられる。 承久の乱の前後には、藤原(九条)頼経が大倉御所から大倉亭に移されたという。 |
1224年(元仁元年)6月13日、義時が大倉亭で亡くなると、六波羅探題だった北条泰時は、同年6月26日、鎌倉に帰り、翌日「鎌倉ノ亭」に入った。 この「鎌倉ノ亭」というのは、若宮大路と小町大路の間の北端と考えられている。 もともとあった建物のようであるが、誰が住んでいたのかは定かではない。 その後、1236年(嘉禎2年)、若宮大路の御所の北方に自館を新造している(若宮大路東側北端)。 |
1242年(仁治元年)6月15日、泰時が亡くなると、四代執権には北条経時が就任した。経時は泰時の旧館に住んでいたものと考えられ、のちに五代執権となる北条時頼が小町亭に住んでいたとものと考えられている。 泰時が執権に就任して以来18年間住んだ場所が、執権館ということになったようである(若宮大路東側北端)。 |
1246年(寛元4年)3月23日、病気の経時は、弟の北条時頼に執権職を譲った(同年4月1日に執権館で死去)。 五代執権となった時頼は、これまでのとおり小町亭にあって、新造された執権館には極楽寺流の北条重時が入った。 重時は、義時の三男で、時頼は、重時を連署に就任させていた。 |
時頼がいつ執権館に入ったのかは定かではないが、1256年(康元元年)11月22日、時頼は病気のため極楽寺流の北条長時(重時の子)に執権職と執権館を譲った。 |
1264年(文永元年)7月、六代執権北条長時が亡くなると、8月には北条政村が執権職に就任した。 このとき、のちに八代執権となる北条時宗が連署に就任し、執権館に入ったものと考えられている。 政村は小町亭に住んでいた。 この頃から、執権館は、執権公邸から得宗公邸へと変化したものと思われる。 |
十四代執権北条高時は、その辞任後は小町亭(現在の宝戒寺)にいたものと考えられている。 最後の執権赤橋守時は、鶴岡八幡宮赤橋(太鼓橋)の前に住んでいたと考えられている(若宮大路西側北端)。 |
宝戒寺入り口の石碑には「北条九代屋敷 頼経公已後代将軍家鋪」と刻まれている。 |
宝戒寺は、北条氏の菩提を弔うため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が創建した寺。 秋のシロハギで知られ「ハギの寺」と呼ばれている。 |
鎌倉市小町3−5−22 0467(22)5512 鎌倉駅東口から徒歩15分 |
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