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若宮大路幕府は、1236年(嘉禎2年)に宇津宮辻子幕府から移されたものといわれるが・・・ 一説には、宇津宮辻子幕府を増改築したのが若宮大路幕府で、実際は同じであったともいわれている。 鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えたため、頼家・実朝の源氏三代は大倉で政務を執った(大倉幕府)。 1225年(嘉禄元年)、頼朝の妻北条政子が亡くなると、三代執権北条泰時は、幕府を大倉から宇津宮辻子に移転。 1236年(嘉禎2年)には、若宮大路に移転した。 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が滅亡するまで、若宮大路幕府が政治の中心となる。 |
大倉幕府跡碑 |
宇津宮辻子 幕府跡 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1254年(建長6年)12月18日、御所では源親行が『光源氏物語』の講義を行っている。 『光源氏物語』とは、紫式部の『源氏物語』のこと。 源親行は、父の源光行と『源氏物語』の写本を大成させ、、1258年(正嘉2年)5月、北条実時はそれを書写させて称名寺に創設した金沢文庫に収めていたのだという。 |
北条実時と源氏物語〜尾張徳川家に伝えられた源氏物語〜 |
源親行が『光源氏物語』の講義が行った時と、北条実時が『源氏物語』の写本を書写させた時の将軍は宗尊親王。 宮内庁の『源氏秘義抄』には、宗尊親王の御所の屏風には色紙形の源氏絵が作られて貼られていたことが記されているらしい。 この源氏絵は将軍家に伝来していた『源氏物語絵巻』を依拠したもので、『源氏物語絵巻』の絵は紀の局と長門の局が描き、詞書は法性寺忠通(藤原忠通)や花園有仁(源有仁)だったのだという。 ということは、紫式部が『源氏物語』を完成させてから約100年後に作られた『源氏物語絵巻』が鎌倉にあったことになる。 |
若宮大路幕府旧蹟碑の横は、作家大佛次郎の茶亭。 茶亭は書斎として使用され、鎌倉文士の交流の場としても使用されていた。 |
鎌倉市小町雪ノ下1−11付近 鎌倉駅東口から徒歩10分 |
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