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「徳政令」というのは、債権・債務の破棄を命じた法令。 1297年(永仁5年)3月6日、九代執権北条貞時は、貧窮に苦しむ御家人救済のために「永仁の徳政令」を発布した(「関東御徳政」)。 これが、我が国最初の「徳政令」ともいわれている。 |
○ | 御家人の所領売却や質入れを禁止。 |
○ | 既に売却し、または、質流れした所領は、元の領主が領有すること。 |
※ | つまり、無償で返還して元に戻すということ。 ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地(買得安堵の土地)や領有後20年を経過した土地は返還しなくてよい。 |
○ | 越訴(おっそ)を禁止する。 |
※ | 越訴とは、裁判で負けた者が再審請求すること。 |
○ | 債権債務の争いに関する裁判申立てを受理しない。 |
○ | 御家人でない者の買得地については、年限に関係なく元の領主が領有すること。 |
東寺 |
宝蔵 |
平安遷都とともに王城鎮護の寺として創建された東寺には、約2万5千通の文書が伝承されてきた。 北条貞時が発布した「徳政令」の正確な内容は不明だが、東寺の宝蔵に収蔵されていた「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ・国宝)の中にその条文が伝えられている(現在は、京都府立総合資料館保管)。 |
1297年(永仁5年)7月22日、北条貞時(連署・北条宣時)が六波羅探題に就任していた大仏宗宣(南方)と北条宗方(北方)に宛てた書状。 ※東寺百合文書WEB(京都府立総合資料館)より |
当時は、蒙古襲来(元寇)の影響や、時代の進展に伴う経済事情の変化もあって、未処理のままの訴訟が山積みとなっており、御家人の所領に関する紛争が増大していた。 そこで発布されたのがこの徳政令。 鎌倉御家人が落ちぶれてしまった原因には、分割相続制による中小御家人の零細化などもあげらる。 源頼朝以来の幕府の基盤である御家人体制を維持するために、また、得宗による独裁・専制政治を維持するためには必要な法令だったのかもしれない。 しかし、これらの規定は、御家人の困窮を一時的にはしのげたかもしれないが、かえって金融の道が閉ざされ、幕府の信用も失い、失敗に終わっている(翌年廃止されている)。 |
北条貞時の発した永仁の徳政令(okadoのブログ) 永仁の徳政令と世界記憶遺産・東寺百合文書(okadoのブログ) |
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