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明月院の門をくぐるとすぐ左手に見えるのが五代執権北条時頼の廟所。 そして、その奥の宝篋印塔は時頼の墓と伝えられている。 かつて、この辺りには時頼が建てた最明寺があった。 『吾妻鏡』は、1256年(康元元年)、時頼が出家の準備のために建立した寺と伝えている。 時頼は、この年の11月22日に執権を辞し、翌日には、最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家する(法名は「覚了房道崇」)。 以後、最明寺で隠居生活を送り、「最明寺入道」と呼ばれていた。 出家からちょうど7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で没(37歳)。 最明寺は時頼の死後廃絶するが、子の北条時宗が最明寺を前身とする禅興寺を創建し(開山は蘭渓道隆)、室町時代には支院の明月院が建立されている。 |
時頼は、出家する前の11月3日に赤痢に罹っていることから、病気を理由に出家したとも考えらえるが、『吾妻鏡』よると7月には出家の考えがあった。 出家には、天皇が上皇となって院政を敷くのと同じく、「後継者を明確にした上で実権を握り続ける」という思惑があったのだとも言われている。 |
北条時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日、北条時氏の次男として誕生。 母は松下禅尼。 兄に四代執権の北条経時がいる。 1246年(還元4年)3月23日、重病となった兄経時から執権職を譲られ五代執権に就任する。 1256年(康元元年)11月22日に執権職を辞して出家するが、政治の実権は握り続けていた。 『吾妻鏡』は、時頼のことを・・・ 「平生から武道をもって君を助け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない、人望があった」 と記し、 臨終に際しては、「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」 と記している。 |
「業鏡(ごうきょう)高く懸(か)く 三十七年 一槌(いっつい)に打碎して大道担然(たんねん)たり」 (この世の善悪をうつしとる鏡(業鏡)のように、邪悪を正すことに専念した37年間、今では一槌のもとに打ち砕いて、人の踏み行うべき道が平坦に続いている) |
伊豆長岡(伊豆の国市)にある最明寺には、時頼の徳を慕って遺骨が分骨されているという。 |
建長寺は、1253年(建長5年)、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。 |
伝北条時頼坐像 最明寺 (大井町) |
塑造北条時頼坐像 明月院 (県重文) |
北条時頼廻国伝説(謡曲「鉢の木」) 母松下禅尼の教え「質素倹約」・・・北条時頼 |
明月院は、八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて開いた「禅興寺」の支院。 境内には、五代執権北条時頼の廟所がある。 鎌倉の「紫陽花寺」。 |
鎌倉市山ノ内189 0467(24)3437 JR北鎌倉駅より徒歩10分 |
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