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1336年(建武3年)、後醍醐天皇の「建武の新政」から離脱した足利尊氏は、後醍醐天皇から光明天皇への神器の授受が行われると、11月7日、二項十七条からなる「建武式目」を制定する。 「建武式目」は、答申書という形の法令で、鎌倉幕府の政務に携わっていた二階堂是円・真恵兄弟ら8人が答申者となって定められた。 1232年(貞永元年)、三代執権北条泰時によって定められた武家の法典「御成敗式目」と足利尊氏の「建武式目」を合わせて「貞建の式条」と呼ばれている。 |
鎌倉は源頼朝が幕府を開き、北条義時が天下を併呑した吉土であるから、本拠と定めるべき。 北条氏が滅亡したという不吉な地という批判もあろうが、それは北条氏が驕り極めて悪政を重ねたからであり、場所が凶だからではない。 ただ、鎌倉を離れたいという者が多ければそれに従うべき。 |
鎌倉幕府の全盛期の政治を模範とし、民を安んずることをもって、政治の至要とすべき。 |
※ | 二項には、政道の指針となる十七ヶ条が列挙されている。 この十七ヵ条というのは、聖徳太子の「憲法十七条」によったという。 |
室町幕府の成立は、「建武式目」が制定されたときという説が有力となっている。 「建武式目」制定から2年後の1338年(暦応元年/延元3年)、足利尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられた。 |
「建武式目」が制定される2ヶ月ほど前の1336年(建武3年)8月27日、足利尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納しているという。 内容は、「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。 その前年、尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、鎌倉の浄光明寺に蟄居したという経緯もある。 尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文でもあるため注目されているという。 夢窓疎石の評によれば、尊氏には「戦場での心の強さ」、「敵をも許す慈悲の深さ」、「物を惜しむことのない度量の広さ」という3つの徳があったという。 |
中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文 |
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