北条政子の御教書と御成敗式目 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 伊豆国狩野荘内牧郷の地頭職をめぐって、加藤景義が兄景朝を訴えた。 景義の主張は、 「兄景朝は、亡父景廉から義絶され相続権がないにもかかわらず、牧郷を押領している」 というもの。 一方、景朝は、 「牧郷は、将来景朝が知行するようにという北条政子の御教書がある」 と主張。 |
御成敗式目の7条には・・・ 「源頼朝・頼家・実朝の源氏三代及び北条政子の時代に御家人に与えられた領地は、その権利を奪われることはない」 と規定されている(不易の法)。 そうすると、争点は、 「義絶されて相続権がない」ということと、 「北条政子の御教書」のどちらを優先すべきか、ということになるが・・・ 1235年(文暦2年)8月21日、執権北条泰時が「北条政子の御教書」を棄却するのは恐れ多いと主張したため、景朝の勝訴が決定した。 |
加藤氏は、1180年(治承4年)8月17日の源頼朝の挙兵に従い、加藤景廉は山木館襲撃で佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取っている。 勝訴した景朝は、景廉の長男で遠山氏の祖。 江戸時代に活躍した「遠山の金さん」(遠山景元)は子孫。 |
御成敗式目は、1232年(貞永元年)、三代執権北条泰時によって制定された武家の法典。 制定時期と寛喜の大飢饉の時期が重なっていることから、飢饉の影響を受けているとの説もある。 また、泰時が承久の乱後に帰依した栂尾高山寺の明恵の思想が強く影響しているとも言われる。 |
北条泰時と栂尾高山寺の明恵 御成敗式目〜北条泰時が評定衆に書かせた起請文〜 |
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