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光明寺は、1240年(仁治元年)、四代執権北条経時が然阿良忠を招いて創建した佐助ヶ谷の蓮華寺をそのはじまりとし、1243年(寛元元年)に材木座に移されて「光明寺」と改められたという。 開基の北条経時は1224年(元仁元年)に誕生。 父は北条時氏、母は松下禅尼。 父時氏が早くに亡くなったため、三代執権北条泰時の跡を継いだ。 経時が執権に就任した当時は、将軍藤原(九条)頼経をとりまく反執権勢力が盛んに活動をしていた。 経時は、頼経を将軍職から引きずり下ろし、頼経の子頼嗣を将軍とすることに成功する。 しかし、心労が重なったためか重病となり、1246年(還元4年)3月23日、弟の時頼に執権職を譲り、閏4月1日に亡くなった 法名は「蓮華寺殿安楽大禅定門」。 経時の墓所は、光明寺裏山(天照山)の中腹にある。 |
※ | 『吾妻鏡』には、「佐々目(笹目)山麓に葬られた」と記されている。 |
経時が亡くなったとき6歳だった長男(隆政)は、園城寺の隆弁のもとで出家し、1263年(弘長3年)1月9日、23歳で亡くなっている。 3歳だった次男(頼助)も出家し、醍醐寺の三宝院や仁和寺で修行を積み、鶴岡八幡宮の別当、左女牛若宮の別当、東寺の長者、東大寺の別当などを歴任し、1296年(永仁4年)2月28日、53歳で亡くなっている。 |
然阿良忠墓 |
裏山の展望 |
北条経時の墓所の奥は、光明寺の歴代住職の廟所となっている。 「光明寺裏山の展望」は、由比ヶ浜の海を一望でき、「稲村ヶ崎」、「十王岩の展望」、「江ノ島稚児ヶ淵」とともに「かながわの景勝50選」に選ばれている。 |
鎌倉の蓮華寺と光明寺〜誰がいつ創建したのか・・・〜(okadoのブログ) 北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜(okadoのブログ) |
米原市にある蓮華寺は、良忠の門弟一向が中興開山に迎えられた寺。 寺号は良忠の佐助ヶ谷の蓮華寺からとったのだという。 1333年(元弘3年)、足利高氏(尊氏)に六波羅探題を攻め落とされた北条仲時ら140余名が自刃している。 |
材木座の光明寺は、後土御門天皇から「関東総本山」の称号を受けた寺。 10月12日〜15日の間は、夜を徹して念仏や御詠歌を唱える念仏会「お十夜法要」が行われる。 |
鎌倉市材木座6−17−19 0467(22)0603 鎌倉駅東口から徒歩35分又は 小坪経由逗子駅行バス「光明寺」下車 |
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