|
鶴岡八幡宮後方の東谷の今宮は、1221年(承久3年)に起きた承久の乱で隠岐に流された後鳥羽院の怨霊を鎮めるため、1247年(宝治元年)に創建された。 「今宮」という名称には、新しい宮という意味があることから「新宮」とも書かれる。 祭神は、後鳥羽・土御門・順徳の三天皇。 承久の乱では、三上皇が配流となった。 後鳥羽上皇は流された隠岐で亡くなり、順徳上皇は流された佐渡で断食をして頭に焼石を乗せて亡くなったといわれている。 今宮には当初、後鳥羽・順徳と順徳の護持僧長賢が祀られていたのだという。 明治に入ってから合祀されたという土御門上皇は、承久の乱には反対していたことから処罰を受けることはなかったが、自ら申し出て土佐に流され、のちに阿波に流されて亡くなった。 |
2019年(令和元年)の台風で被害を受け、2021年(令和3年)6月、新たな社殿が竣工した。 |
伝説によると、1239年(延応元年)、鎌倉の街の方々で喧嘩や争いごとが起き、特に5月25日には大騒動が起きた。 承久の乱で敗れ、隠岐に流されていた後鳥羽院が、2月22日に崩御していることから、院の恨みが原因だろうということで、神社を建てて霊を祀ることにしたのだという。 |
1221年(承久3年)6月14日、後鳥羽上皇は北条義時追討のため、城南寺(城南宮)の流鏑馬揃えを名目に兵を集めたのだという。 翌日には、官宣旨と院宣が下された。 自ら太刀を鍛えてまで義時追討を実現しようとした後鳥羽上皇だったが、時勢に逆らうことはできなかった。 |
「菊御作」は、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵に際して士気を鼓舞するため、自らが鍛えたものと伝えられている。 |
隠岐で火葬された遺骨は、上皇がお気に入りだった西蓮(藤原能茂)が摂津国の水無瀬殿に移し、京都大原の勝林院に納骨。 |
その後、上皇の後宮修明門院(藤原重子)の計らいで水無瀬殿の一部を京都の大原に移して法華堂が建立され納骨されたのだという。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
今宮の後ろには、六本杉と呼ばれた大木があり、一つの根から六本に分かれていた。 その六本杉には天狗が住み着いていたという言い伝えがある。 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|