北条政子の前に現れた伊賀の方の怨霊 |
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伊賀の方は、二代執権北条義時の後妻(継室)。 1224年(貞応3年)6月、義時が亡くなると・・・ 謀反を企てたとして北条政子の命により伊豆国流罪となった(伊賀氏の変)。 『吾妻鏡』には、1224年(貞応3年)12月24日、伊賀の方が危篤となったことが記録されているが、それから間もなく亡くなったものと考えられる。 |
『北条九代記』によると・・・ 伊豆国の北条の地に閉じ込められ、鎌倉に深い恨みを抱きながら亡くなった伊賀の方。 その怨霊が北条政子の御所の女房たちの前に現れて、恐れ驚いた女房たちが死ぬという事が度々あったのだという。 そして、ついに怨霊は政子の前にも現れた。 政子はそのことを言葉には出さなかったが、祈祷をしていたという。 しかし、間もなく病となり、亡くなったのだとか・・・ 北条政子の死 |
伊賀氏の変は、北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、伊賀の方の実家・伊賀氏を潰すためにでっち上げたとする説が有力となっている。 三代執権となった北条泰時も伊賀の方の謀反を否定していて、伊豆の国市の北條寺には泰時が建てた北条義時と伊賀の方の墓が残されている。 |
北條寺の義時夫妻の墓は、北条政子の画策に乗らず、伊賀氏の謀反を否定していたという北条泰時が建てたもの。 |
北条義時は毒殺されたのか? 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
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