1197年(建久8年)、源頼朝は、信濃善光寺を参詣したと伝えられています。 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は、建久8年の記事が欠落しているため定かではありませんが、信濃善光寺には頼朝参詣の伝説が残されています。 『吾妻鏡』の1187年(文治3年)7月27日の条によると、頼朝は、1179年(治承3年)に焼失し、礎石の他に何も残っていないという状況だった信濃善光寺の再建を命じています。 これにより、信濃善光寺は1191年(建久2年)に再建がなり落慶供養が行われたといいます。 『吾妻鏡』によると、1195年(建久6年)8月2日、頼朝は、鶴岡八幡宮の放生会後に信濃善光寺の参詣を計画しています。 8月23日には「間もなく寒くなってしまう」という理由から、翌春に延期されていますが、この年、頼朝が東大寺の大仏殿落慶供養参列に続いて、信濃善光寺の参詣を計画していたことがわかります。 その後、参詣の計画がどのようになったのか『吾妻鏡』からは分かりませんが・・・ 肥後国人吉藩(ひとよしはん)の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には・・・ 1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているといいます。 頼朝の善光寺参詣は、当時、関東に広まっていた善光寺信仰を利用して、関東の御家人を掌握するためだったと考えられているようです。 |
甲斐善光寺は、1558年(永禄元年)、戦火によって信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄が、本尊善光寺如来と多くの寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まります。 そのときに伝えられた寺宝の中には、日本最古といわれる源頼朝像・源実朝像なども含まれていました。 |
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