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金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、1211年(建暦元年)、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために発願した禅定院に始まる寺院。 開山供養には、政子が帰依した我が国臨済宗開祖の栄西が招かれている。 1219年(承久元年)、三代将軍の源実朝が暗殺されると、実朝の菩提を弔うため、政子の命により安達景盛を奉行として伽藍造営が進められ、金剛三昧院に改称(諸説あり)。 栄西の弟子の退耕行勇が初代長老となった。 行勇の長老就任は、景盛の推挙によるものといわれている。 1223年(貞応2年)、大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などが建ち並ぶ大伽藍が完成。 1238年(嘉禎4年)には、足利義氏が政子の十三回忌にあたり大仏殿を建立し、丈六の大日如来像が奉安され、実朝と政子の遺骨が納められたのだという。 1281年(弘安4年)、八代執権北条時宗は安達泰盛を奉行に任じて勧学院と勧修院の二院を造営。 僧侶の学道研鑽の道場となって栄えたが、1318年(文保2年)、勧学院は後宇多法皇の院宣によって壇上伽藍(金剛峯寺)に移建された。 |
源実朝が暗殺された後、鎌倉の壽福寺で退耕行勇を戒師として出家した正妻の坊門姫(西八条禅尼)。 京都に戻った後、実朝を弔うための遍照心院(現在の大通寺)を建立。 寺に何か問題が起こったときは安達泰盛に訴えるよう遺言していたのだという。 泰盛は金剛三昧院を整備した安達景盛の孫。 |
本尊は、源頼朝の念持仏だったという愛染明王。 運慶作と伝えられている。 本尊の脇には源頼朝・北条政子・足利尊氏・足利直義の位牌が安置されている。 |
1223年(貞応2年)に建立された高野山で最古の建物。 多宝塔としても滋賀の石山寺の多宝塔に次いで古い。 快慶作と伝えられる五智如来が安置されている。 北条時宗発給の「関東下知状案」によると、1281年(弘安4年)当時、金剛三昧院には二基の多宝塔があったらしい。 一説によると、現存する多宝塔は源頼朝の墳墓堂。 かつてあったもう一基は、南塔と呼ばれ源実朝の養育係だった大弐局の発願により建立された実朝の墳墓堂だったのだという。 |
経蔵も大弐局の発願により建立されたとされている(北条政子の発願とも。)。 参考までに、横浜の称名寺の塔頭光明院の大威徳明王は、大弐局の発願により最晩年の運慶によって造立された仏像。 |
樹齢400年ともいわれる古木。 |
金剛三昧院は、天台・真言・禅の三宗兼学で、金剛峯寺とは別の寺院として経営されていた。 金剛峯寺の塔頭として扱われるようになったのは、江戸時代になってからと言われている。 |
※ | 栄西が開いた鎌倉の壽福寺や京都の建仁寺も三宗兼学の寺院だった。 |
高野山の源氏三代(頼朝・頼家・実朝)の五輪塔は、源頼朝の三男で北条政子が帰依した貞暁が建てたもの。 |
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和歌山県伊都郡高野町高野山425 南海ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「千手院橋」下車 |
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