1189年(文治5年)7月18日、源頼朝は、伊豆山権現の専光房良暹を呼び出し、御所の裏山に奥州征伐の祈願所を設けて、頼朝の守り本尊である「二寸銀の正(聖)観音像」を安置して祈ることを命じています。 これが頼朝の持仏堂で、頼朝亡き後には法華堂と呼ばれます。 安置された正観音像は、1180年(治承4年)の挙兵の際に、頼朝が髷に入れていたという観音像で、頼朝が三歳のときに京都清水寺から下されたものだったといいます。 石橋山の敗戦後、山中の洞窟に置いて逃げますが、12月25日、専光房良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けられていました。 |
※ | 専光房良暹は、石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説があるようです。 |
死後、持仏堂に葬られた頼朝。 持仏堂があった場所には、江戸時代に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)によって多層塔が建てられています。 |
しとどの窟は、石橋山の敗戦後、山中に逃れた頼朝が隠れ潜んだという洞窟。 |
伊豆山神社 (熱海市) |
清水寺 (京都市東山区) |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 |
この年、北条時政も奥州征伐の成功を祈願するため、伊豆国の北条郷に寺の建立を計画しています。 建てられた寺が運慶の諸像を安置する願成就院。 |
願成就院の北隣には頼朝の別荘も建てられたのだと伝えられ、光照寺はその跡地と言われています。 |
願成就院建立の逸話 (興味が湧く『吾妻鏡』の記録) |
侍所別当の和田義盛も浄楽寺を創建。 運慶の真作とされる諸仏は、奥州征伐の成功を祈願して造立されたものと伝えられています。 |
鶴岡八幡宮の五重塔 |
奥州藤原氏の滅亡 |
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