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『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)6月6日、北条時政は奥州討伐の成功を祈るため伊豆国の北条の地に寺院造営を計画し、立柱・上棟の開眼供養を行います。 寺の名は「願成就院」と決まりました。 |
『吾妻鏡』によると、本尊となる阿弥陀三尊と不動明王・多聞天(毘沙門天)は事前に造立されていました。 これらの仏像は、胎内銘札から1186年(文治2年)に北条時政の発願により運慶が造立したことが判明しています。 運慶が仏像造立を開始したのは5月3日。 この前年の9月、時政は「守護・地頭」の設置を要求するため上洛し、そのまま京都守護として駐留します。 そして、翌年4月に鎌倉に帰っています。 この時、運慶も随行させていたとういう説があるようです。 |
話は文治5年に戻りますが、『吾妻鏡』によると・・・ 7月18日、源頼朝は伊豆山権現の專光房良遷を呼びつけて奥州征伐のための祈願所を御所の裏山に建立することを命じます。 その時、伊豆国の北条郷に寺を建てることを思いついたそうです。 ここで疑問なことが・・・ 既に時政が寺院建立の上棟式を済ませた北条の地に寺を建てるとはどういうことなのでしょう??? 北条氏の私寺としての建立よりも、頼朝の祈願所としての建立の方が周囲に対しての影響力が大きいと考えたからなのかも・・・ 『吾妻鏡』は北条氏よりの歴史書。 時政の考えを頼朝の思いとして記載したのかもしれません。 翌7月19日、頼朝は奥州征伐に出陣。 9月3日、藤原泰衡が比内郡贄柵で殺害されたことにより奥州藤原氏が滅亡し、10月24日、鎌倉に帰りました。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 11月24日、時政が願成就院建立の奉行として伊豆国へ出かけます。 12月9日、願成就院の北隣に頼朝の別荘を建てるため、土を掘り返すと「願成就院」と書かれた古い扁額が出てきます。 寺の名は6月の上棟式の時に決まっていましたが、それと同じ文字が書かれた扁額が出てきたのです。 という事は・・・ 願成就院という寺は、時政が建立する前に存在していたという事が言えるのかもしれません。 |
願成寺は、流人だった頼朝が三嶋大社に百日間の日参をしたときに宿舎となり、頼朝から「天主君山願成就院」という名を賜った庵を前身としているのだとか・・・。 参考までに、願成就院の山号は「天守君山」。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2年)正月13日、鎌倉の法華堂(頼朝の墳墓堂)では、頼朝の一周忌が行われました。 伊豆国の北条郷では、頼朝の別荘を阿弥陀三尊と不動明王・地蔵菩薩を祀る寺とされています。 |
光照寺は、願成就院の北側にある寺院で、頼朝の宿所跡ともいわれています。 |
静岡県伊豆の国市寺家83−1 伊豆箱根鉄道韮山駅 又は伊豆長岡駅より徒歩15分 |
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