1189年(文治5年)に入ると、源頼朝は亡母・由良御前の供養のため、また、鶴岡八幡宮の伽藍を整備するために五重塔を建て始めます。 3月13日には「塔の九輪」が上げられました。 五重塔は、5月8日には朱色に塗られ、19日には五重塔の供養の日を6月9日と決定しますが、5月22日、奥州から伝令が到着し、閏4月30日に源義経が自刃したことが伝えられます。 |
頼朝は、「穢れが生じた」という理由で、供養の日を遅らせようと考えますが、事は次々と進んでしまいます。 5月25日、新藤中納言兼光が起草し、堀河大納言忠親が清書した供養の願文が到着。 6月3日、天台座主全玄の代官中納言法橋観性が供養の導師として到着。 そして、6月5日、大江公朝が後白河法皇の使者として到着。 翌日早朝には、後白河法皇から下された品が幕府に届けられます。 こうした状況ですので、6月7日には、予定どおりに供養の式典を行うことを決めました。 義経の死から30日が経過しているので、「直接内陣に入らなければ問題ない」ということになったからだといいます。 ただし、義経の首は鎌倉に入っては困るので、運び入れるのを延期させています。 こうして、6月9日に五重塔の供養が行われました。 供養の導師は法橋観性、呪願師は別当円暁(「呪願」(じゅがん)とは、施主の願いを述べること。)。 頼朝も出席しますが、宮寺に近づくのは遠慮して、馬場に桟敷をつくって供養を見守ったということです。 |
※ | 頼朝が建てた五重塔は1191年(建久2年)の大火で焼失してしまいました。 |
その後、義経の首は、6月13日に腰越の浜に運ばれ、和田義盛と梶原景時による首実検が行われた後、藤沢の白旗神社付近に流れ着き葬られたと伝えられています。 義経首洗井戸は、義経の首を洗い清めた井戸と伝えられています。 |
「索餅」(さくべい)は、七夕に供えられた食べ物。 「素麺」(そうめん)は索餅が変化したものなのだといいます。 6月3日、頼朝は五重塔の供養の導師を勤める法橋観性を佐々木高綱に命じて旅館と定めていた八田知家の屋敷に案内させます。 そして、三浦義村を遣わして菓子と索餅を贈っています。 文献で「素麺」が初めて確認されるのは、祗園社(八坂神社)の『祇園執行日記』(1343年(康永2年)7月7日条)のようです(いろんな説があるようです。)。 |
義経・衣川館で自害 |
持仏堂の建立 |
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