1185年(文治元年)11月3日に都を落ち、11月6日には大物浦から九州へ船出しようとして難破してしまった源義経。 その後、行方をくらませていましたが、1187年(文治3年)の春頃になって奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。 しかし、その年の10月29日、秀衡が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれました。 秀衡は、 「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」 と遺言していたといいますが、泰衡は、源頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込んでしまいます。 |
源義経と妻子終焉の地。 |
金鶏山の麓には義経の正妻・郷御前と子の五輪塔があります。 |
中尊寺の弁慶堂には、衣川館で自害した源義経と仁王立ちのまま息絶えたという弁慶の像が安置されています。 |
自刃した義経の首は新田高平によって鎌倉まで運ばれ、6月13日、腰越の浜で和田義盛と梶原景時が首実検を行っています。 義経が自刃してから首実検が行われるまでの期間が長すぎますが、鎌倉では鶴岡八幡宮に五重塔が建てられ、その落慶供養が6月9日だったことから、頼朝は義経の首を鎌倉に入れなかったのだといいます。 |
首実検が行われた浜。 その後、義経の首は捨てられたといいます。 |
捨てられた義経の首は境川を遡上し白旗神社付近に流れ着きます。 |
義経の首を洗い清めた井戸と伝えられています。 |
奥州平泉の衣川館で自刃した義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬寺へ戻ったといわれ、遮那王尊として祀られています。 |
伊豆箱根の二所詣 |
鶴岡八幡宮の五重塔 |
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