1195年(建久6年)3月、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した源頼朝。 武蔵国の武将・稲毛重成も随行していました。 重成の妻が重病となったのはその帰路の事。 重成の妻は北条時政の娘、北条政子・北条義時の妹。 『吾妻鏡』によると・・・ 6月28日、美濃国の青墓に頼朝の行列が到着すると、武蔵国からの伝令が到着し、重成の妻が重病であることを伝えます。 頼朝が重成に足の速い馬を与えると、重成はすぐに飛び乗って走り出したのだといいます。 7月1日、重成が武蔵国に到着。 頼朝が重成に与えた馬は龍のようだったので三日黒と名付けられたのだとか。 7月4日、重成の妻が亡くなり、重成は出家。 |
妻を亡くした悲しみから出家した重成は、広福寺を氏寺とします。 7月9日、政子が喪に付すため比企能員邸へ。 7月10日、時政と義時が喪に付すため伊豆国へ。 その他、多くの御家人が許しを得て自国へ帰ったのだそうです。 8月9日、政子邸で行慈法眼を導師として法事が行われました。 |
のちに重成は、亡き妻の供養のために相模川に橋を架け、頼朝が渡り初めを行います(1198年(建久9年)12月27日)。 『北条九代記』などによると、頼朝はその帰路に落馬し、翌年正月13日に亡くなります。 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 (落馬の原因は病気?) |
1199年(建久10年)1月13日に亡くなった頼朝は、持仏堂に葬られました。 源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ |
その後重成は・・・ 1205年(元久2年)6月23日の畠山重忠の乱で「畠山謀反」を言い立てたとして北条義時に討ち取られています。 |
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