|
明治の鎌倉彫先駆者、後藤齋宮(いつき)と運久、三橋鎌山と鎌岳の二家の父子を顕彰する碑。 かつての仏所であった場所に、1979年(昭和54年)、後藤俊太郎によって建てられた。 |
※ | 伊勢原市の日向薬師の仁王像は、後藤家の仏師によって造立されたもの。 |
源頼朝が鎌倉に入り、武家の都を創る上げると、運慶をはじめとする慶派の仏師たちが奈良から東国に入り活躍するようになる。 そして、宋の文化が流入し禅宗寺院が興隆するようになると、仏具なども作られるようになった。 これらの元となったのは、宋から陳和卿が持ってきた彫漆工芸。 それを運慶の子康運が真似たのだという。 建長寺の「須弥壇」や円覚寺の「前机」などの仏具がその代表で、奈良の慶派の仏師たちによって作られたものといわれ、鎌倉彫の原型とされている。 その技術は、鎌倉仏師にも受け継がれ、茶が普及するようになると、「茶入」、「香合」、「香盆」などが作られるようになっていった。 壽福寺の周辺(扇ヶ谷)には、多くの仏所があったといわれている。 |
※ | 明王院の「木造不動明王坐像」(重文)は康運の作とする説がある。 |
黒漆須弥壇 |
前机 |
しかし、政治の中心が鎌倉を離れると、多くの仏所がなくなり、江戸時代後期には鎌倉仏師の流れを受け継いでいるのは、後藤家と三橋家のみとなった。 明治に入ると廃仏毀釈の運動によって仏師たちの造仏の仕事がなくなり、その技術は工芸品の制作へと移行していく。 昭和に入り、後藤家28代目の俊太郎は、戦後の鎌倉彫の普及に努め、1979年(昭和54年)には「伝統的工芸品」の指定を受けるに至った。 |
若宮大路沿いにある鎌倉彫会館は、1968年(昭和43年)、後藤俊太郎らが中心となって建設された。 2005年(平成17年)には、小町大路にあった鎌倉彫資料館が移設され、鎌倉彫の作品が展示されている他、ビデオ上映や体験教室も開催されている。 |
運慶〜鎌倉の武家政権と奈良仏師〜 窟小路 国の伝統的工芸品・・・鎌倉彫 若宮大路の散策 |
鶴岡八幡宮の三の鳥居横の博古堂は、1900年(明治33年)、後藤家27代の運久によって開かれた。 戦中に取り壊されたが、1948年(昭和23年)、28代の俊太郎によって新装開店されている。 |
|