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鎌倉彫会館は、1968年(昭和43年)、若宮大路沿いに開館。 1977(昭和52年)に小町大路沿いに開館した「鎌倉彫資料館」も、2005年(平成17年)に鎌倉彫会館内に移転している。 鎌倉彫に関するビデオ上映や室町時代からの作品が展示されているほか、鎌倉彫の体験教室や教材の販売などを行っている。 |
源頼朝が鎌倉に武家の都を創設したことにより、鎌倉は政治・文化・経済の中心として栄え、多くの寺院が建立され、仏像の造立もさかんに行われた。 鎌倉に集まった仏師たちは仏像だけではなく、光背・台座・香合・食器・燭台などの仏具も制作していた。 「鎌倉彫」は、宋の工人陳和卿(ちんなけい)が持ち込んだ彫漆工芸を真似て、運慶の子康運が仏具を作ったのがはじまりと考えられている。 彫漆工芸は、漆を何百回も塗り重ねた漆の層に彫刻を施すもので、手間も時間もかかり費用もかかるものだった。 そこで考え出されたのが、木に彫刻してから、その上に漆を塗るという方法。 初めは宋の影響が残されていたが、次第に日本独自の工芸品へと変化していった。 それが今に伝わる「鎌倉彫」で、建長寺の「須弥壇」や円覚寺の「前机」は、鎌倉彫の原型とされている。 室町・江戸時代になると茶道の流行によって、仏師たちは茶道具・文具・食器などの調度品を鎌倉彫で制作するようになり、宮廷や武家以外の町人の生活にも広がっていった。 江戸時代の『三条西実隆日記』には、「鎌倉物」と記されている。 しかし、明治に入ると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、多くの仏師が職を失い、ついには、後藤家と三橋家のみとなってしまう。 後藤家と三橋家は、仏師としての副業であった鎌倉彫を本業とすることにし、パリ、ウィーン、アメリカで開催された万国博覧会に鎌倉彫を出品するなど、新時代の鎌倉彫制作に努力した。 1889年(明治22年)、横須賀線が開通し、別荘地や保養地として栄え観光客も増えると、鎌倉彫の需要も多くなり、愛好されるようになっていく。 第2次世界大戦によって打撃を受けるが、徐々に復活し、1979年(昭和54年)には、全国で27番目となる伝統的工芸品の指定を受けた(神奈川県では初めての指定)。 |
※ | 明王院の「木造不動明王坐像」(重文)は康運の作とする説がある。 |
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