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我が国臨済宗の開祖栄西(明庵栄西)は、2度のわたって宋で学び、帰国後の1192年(建久3年)に禅宗寺院のはじまりといわれる報恩寺を創建。 1194年(建久5年)には、京で禅を広めようとするが、既成教団からの圧力を受けて禅は禁止されてしまう。 『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝が亡くなった年の1199年(正治元年)9月26日、幕府は不動明王像の供養を行っている。 このときの導師が栄西だったことから、これ以前に鎌倉へやってきて活躍の場としていたものと考えられる。 |
1200年(正治2年)正月13日 |
源頼朝の一周忌に導師を勤める(法華堂) |
1200年(正治2年)閏2月13日 |
北条政子が創建した寿福寺の開山に迎えられる。 |
1200年(正治2年)7月15日 |
北条政子が京で描かせた十六羅漢図の供養の導師を勤める(寿福寺)。 |
1202年(建仁2年)3月14日 |
永福寺の多宝塔の供養の導師を勤める。 |
1203年(建仁3年)9月2日 |
北条時政邸の薬師如来供養の導師を勤める。 このとき北条時政は比企能員を誘き出し暗殺している(比企能員の変)。 |
1204年(元久元年)12月18日 |
北条政子が南都で描かせた七観音図の供養の導師を勤める(寿福寺) |
1205年(元久2年)5月25日 |
御所で行われた五字文殊菩薩の供養の導師を勤める。 |
1211年(建暦元年)10月19日 |
宋本一切経五千余巻の供養の導師を勤める(永福寺)。 |
1211年(建暦元年)10月22日 |
伊賀朝光が永福寺の傍らに建てた一宇の供養の導師を勤める。 |
1211年(建暦元年)12月25日 |
源実朝の持仏堂での文殊供養の導師を勤める。 |
1212年(建暦2年)6月20日 |
寿福寺を訪れた源実朝に仏舎利三粒を譲る。 |
1214年(建保2年)2月4日 |
二日酔いの源実朝に『喫茶養生記』を献じる。 |
1214年(建保2年)6月3日 |
祈雨のための法華経を転読。 |
1214年(建保2年)7月27日 |
大慈寺の供養の導師を勤める。 |
1214年(建保2年)10月15日 |
大慈寺で仏舎利を供養するための法会を始行。 |
源実朝が栄西から譲り受けた仏舎利と宋から請来した仏舎利 |
1215年(建保3年)6月5日 |
寿福寺で入滅(実際は7月5日に京都の建仁寺で入滅。)。 |
鎌倉で数多くの供養・修法を行った栄西だが、ほとんどが密教的行法であったといわれている。 この間、京都と鎌倉を往復し、1202年(建仁2年)には、源頼家の外護によって京都に建仁寺を開いた。 1206年(建永元年)には、重源の跡を継いで東大寺大勧進となっている。 |
建仁寺 |
恵美須神社 |
栄西が開山となったの建仁寺は京都最古の禅寺(京都五山第三位)。 創建にあたって鎮守として建立されたのが恵美須神社。 |
東大寺 |
鐘楼 |
東大寺を再建した重源の跡を継いで、1206年(建永元年)、東大寺二代目の大勧進職に任じられた栄西。 国宝梵鐘が吊されている鐘楼は栄西が再建したもの。 |
寿福寺は、源義朝の旧跡に北条政子が創建したといわれる寺。 開山は、我が国臨済宗の開祖で『喫茶養生記』で知られる栄西。 鎌倉五山の第三位。 |
鎌倉市扇ガ谷1−17−7 鎌倉駅西口より徒歩10分 |
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