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大慈寺は、1212年(建暦2年)4月18日、三代将軍源実朝が後鳥羽上皇への恩と父源頼朝の徳をたたえるために建設を開始した寺院。 勝長寿院の「大御堂」に対して「新御堂」とも呼ばれていた。 1214年(建保2年)7月27日には、栄西が呼ばれ、北条政子も参列する大法要が催された。 1216年(建保4年)、実朝は宋の能仁寺から仏舎利(釈迦の歯)を請来。 仏舎利は、勝長寿院に安置された後、大慈寺に納められていたというが、1285年(弘安8年)、北条貞時によって円覚寺に移され、現在は、正続院の舎利殿に納められている。 |
大慈寺は、七堂伽藍を有する壮大な寺院だった。 明王院の東側一帯が全て大慈寺の境内だったと考えられている。 1257年(正嘉元年)には、大修繕が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、三重塔、鐘楼等が修理され、そのときの供養の様子が『吾妻鏡』に記されている。 江戸時代まで丈六堂が存在していたが廃絶となり、堂に安置されていた阿弥陀仏の頭が光触寺に伝えられている。 金沢街道沿いの墓塔群を丈六堂の跡地と考える説もあるが定かではない(横浜市金沢区の龍華寺が管理する墓地)。 |
北条貞時によって円覚寺に移された仏舎利は、室町時代、その一部は京都に献じられ、鹿王院に安置されたらしい。 |
京都の鹿王院は、足利義満が創建した寺。 舎利殿に安置されている仏舎利は円覚寺にあったものだという。 |
1212年(建暦2年)4月18日から建立が始まった大慈寺。 10月11日、源実朝が建立地の大倉郷へと出かけたときのこと。 供をしていた三善康信(善信)が実朝に霊夢の話をした。 1198年(建久9年)の12月頃に見た夢のことです。 頼朝様の供をして大倉山あたりに行きました。 そこに一人の老人がおりました。 その老人が言うには、 「この地は、清和天皇の時代に相摸丞となった文屋康秀(ふんや の やすひで)が住んでいた所。 ここに寺を建てなさい。 私が鎮守となりましょう」 夢から覚めた私は、すぐに頼朝様に報告しました。 その時、頼朝様は病気療養中でしたが、「もし治ったら寺を建てる」とおっしゃられました。 しかし、その希望は叶うことなく翌年正月に亡くなられてしまい、残念に思っておりましたが、実朝さまが自ら願われて建立されますことは、やはり霊感なのでしょうか。 |
源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 |
『吾妻鏡』によると・・・ 源実朝は大慈寺の落慶供養に園城寺(三井寺)・醍醐寺の高僧を招こうとしていたらしい。 しかし、1214年(建保2年)4月18日、北条義時・大江広元・二階堂行光・三善康信・二階堂行村の評議で、往復の費用の問題から、関東に住持する僧を推挙することになったのだという。 結局、7月27日に行なわれた落慶供養には壽福寺の栄西が招かれている。 栄西は、実朝や政子が帰依した高僧で、我が国臨済宗の開祖。 この年の2月4日、二日酔いの実朝は、栄西に茶を勧められ『喫茶養生記』を献上されている。 |
鎌倉に下向した園城寺の公胤と源実朝 源氏ゆかりの園城寺(三井寺)と源実朝 |
『吾妻鏡』によると、四代将軍藤原(九条)頼経の発願で建てられた明王院は、当初、永福寺か大慈寺境内に建立される計画だった。 その後、永福寺境内に建設することが決定されるが、すぐに甘縄に変更。 さらに、大倉に変更されて建立されたのだという。 同時に進められていた頼経の正妻竹御所の御願寺は、大慈寺境内に建設されている。 五大堂明王院の建設計画 |
『金槐和歌集』は、源実朝自撰のもので、『鎌倉右大臣家集』とも呼ばれ、藤原定家から「万葉集」が贈られた1213年(建保元年)頃に成立したものと考えられている。 |
舎利殿 (円覚寺) |
ビャクシン (鶴岡八幡宮) |
源実朝公御首塚 (秦野市) |
壽福寺の五輪塔 |
宋に憧れた将軍〜源実朝の唐船建造・渡宋計画〜 源実朝が請来した仏舎利の伝説 (円覚寺舎利殿の仏舎利) 源実朝が栄西から譲り受けた仏舎利と宋から請来した仏舎利 |
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