鎌倉に下向した園城寺(三井寺)の公胤と源実朝 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1209年(承元3年)9月29日、源実朝の招きによって園城寺の公胤が鎌倉に下向。 宿は二階堂行光邸。 宿直は佐々木広綱が担当。 10月10日、二階堂行光が永福寺の傍らに建てた堂の開眼供養の導師を勤める。 法要には北条政子も参列し、北条義時・北条時房・大江広元・源親広・三善善信らが聴聞に訪れたのだという。 10月13日は源頼朝の月命日。 公胤を導師として法華堂で法要。 施主は北条政子。 北条義時・北条時房なども公胤の説法を聴くために参列。 10月15日、御所で源実朝と対談。 園城寺が源頼義以来源家代々と深いつながりがあったことを語り、それを大江広元が記録している。 参考までに、源頼朝の姉妹・坊門姫の四十九日法要の導師は公胤だった。 10月17、帰洛。 実朝は、今は寒さがきつく長旅には差し障りがあるとして引き止めたようだが、長講堂の法事の導師をすることになっていたため急いで出発したのだという。 北条義時・大江広元をはじめとする御家人らの餞別の品々は数百種にもなり、実朝は相模国より西の守護人らに荷物を送り継がせるための兵士を差し出すよう命じている。 |
のちの1214年(建保2年)、源実朝は大慈寺の建立に着手。 開眼供養には園城寺や醍醐寺から高僧を招きたかったようだが、往復の旅費などの関係からその願いは叶わなかった。 公胤を呼びたかったのかもしれない。 ただ、園城寺はこの年の4月15日に比叡山の衆徒に放火されてしまっているので、7月に行われた開眼供養の導師を公胤が勤めるのは無理だったかもしれない。 |
源氏ゆかりの園城寺(三井寺)と源実朝 |
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