源実朝が栄西から譲り受けた仏舎利と 宋から請来した仏舎利 |
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大慈寺は源実朝が建てた寺。 『吾妻鏡』によると・・・ 1212年(建暦2年)4月18日から建て始められ、1214年(建保2年)7月27日には栄西を導師とする法要が営まれている。 そして、10月15日には、栄西による舎利会が行われた。 ※舎利会は、仏舎利(釈迦の遺骨)を供養する法会。 何故、大慈寺で舎利会が行われたのか? 『吾妻鏡』によると・・・ 大慈寺が建て始められた年の6月20日、実朝は壽福寺で栄西から仏舎利三粒を譲り受けている。 『新編鎌倉志』によると・・・ 栄西が実朝に相伝した仏舎利は、その後、壽福寺に納められていたらしい。 とすると、大慈寺の法会は、栄西が壽福寺の仏舎利を大慈寺に納めて行われたということになるのかもしれない。 |
円覚寺の舎利殿に納められている仏舎利は、大慈寺から円覚寺に移されたもので、源実朝が宋国の能仁寺より請来したものと伝えられている。 円覚寺の『萬年山正續院佛牙舎利略記』によると・・・ ある時、実朝は夢の中で、自分が 「宋国の能仁寺の長老・南山道宣律師の再誕である」 と告げられ、同時に鶴岡八幡宮の良真と栄西も同じ夢を見ていたことから、良真を宋に派遣して仏舎利を請来。 それを大慈寺に納めたのだという。 とすると、大慈寺には栄西から譲り受けた仏舎利と宋から請来した仏舎利があったということになるが・・・ 実朝はこんな歌を詠んでいる。 塔をくみ 堂をつくるも 人なげき 懺悔にまさる 功徳やはある 「塔を組んで堂を作っても、人の嘆きや懺悔に勝る功徳はないだろう」 堂塔を建てることよりも自分の罪深さを嘆き、罪や過ちを認めて悔い改める尊さを詠んだもの。 塔は釈迦の遺骨を納めるための建造物として始まっているのだという。 実朝が 「仏舎利を安置する堂塔を作っても・・・」 と思ってこの歌を詠んだとするなら、仏舎利を請来しようという考えになるのかどうか? もしかすると、円覚寺の仏舎利は、栄西から譲り受けたものなのかも。 参考までに・・・ 実朝の歌は『金槐和歌集』に載せられているもの。 『金槐和歌集』は、1213年(建保元年)頃に成立した実朝自撰のものと考えられている。 大慈寺で舎利会が行われる前。 ただ、『吾妻鏡』によると、1217年(建暦2年)9月30日、実朝は永福寺で舎利会を行っている。 これが宋から請来した仏舎利の供養だったということもあるのかもしれない・・・ |
室町時代、円覚寺の仏舎利の一部は京都に献じられ、鹿王院に安置されたらしい。 |
京都の鹿王院は、足利義満が創建した寺。 鹿王院の舎利殿に安置されている仏舎利は円覚寺にあったものだという。 |
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