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四代将軍藤原(九条)頼経の祈願所として建立された明王院は、当初、二階堂に建設が予定されていたが、その後、建設地が甘縄に変更され、さらに大倉に変更されたのだという。 『吾妻鏡』には、その経緯が記録されている。 記録には、つじつまの合わないような箇所もあるが・・・ |
『吾妻鏡』によると・・・ 1231年(寛喜3年)10月6日、頼経の御願寺を永福寺または大慈寺の敷地内に建立されることが決定される。 同時に、永福寺の境内には頼経の正妻竹御所の御願寺を建立することとされた。 |
※ | 竹御所の御願寺は父源頼家を供養するための御堂かと??? |
永福寺は、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。 |
大慈寺は、源実朝創建の寺院。 円覚寺の舎利殿に納められている仏舎利は、大慈寺に納められていたもの。 |
10月16日には、永福寺本堂の池の北方に五大尊堂を建立することが決定され、建立日時も決定された。 しかし、10月19日、建設地を甘縄に変更。 安達義景の南で、千葉時胤の北、西山の周辺とされる。 |
建設予定地となった甘縄は、長谷ではなく扇ヶ谷なのかと・・・ 長谷の甘縄神明神社には安達邸跡碑が建てられているので長谷と考えてしまうかもしれないが、甘縄は坂ノ下の御霊神社辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったらしい。 鎌倉歴史文化交流館が建てられている地は、安達邸内にあった無量寺跡ともいわれている。 なお、千葉氏の屋敷は市役所の北側辺りにあったのだと伝えられている。 |
ところが・・・ 10月25日の晩、大風が吹いて北条時房の公文所が焼亡。 東は勝長寿院橋辺りまで火が回り、西は永福寺の総門の内まで炎が飛び、源頼朝の法華堂と北条義時の法華堂とその本尊も灰となってしまう。 10月27日、頼朝と義時の法華堂が焼失してしまったことで、頼経と竹御所の御願寺の新造は延期となる。 11月18日、頼経の祈願の五大明王像の造立が始める。 この日、焼失した頼朝の法華堂の上棟式も行われている。 12月26日、五大明王の用材の穢れを除く加持式。 本尊の薬師如来・観音菩薩・不動明王が造立され、頼経が来年15歳の厄年であることから、その祓いの経もあげられている。 |
1232年(寛喜4年)10月2日、頼経15歳の願として、大倉に寺を建立することが決定。 10月7日、竹御所の願による御堂地を大慈寺内に曳き始めた。 10月22日、来年建設予定の頼経の願による五大尊像を祀る御堂について、大倉の奥の土地が建設予定地と定められる(※来年とあるが建設が始まったのは3年後)。 11月3日、五大尊像を祀る御堂の土地に縄張りを曳き始める。 11月9日、竹御所の願による御堂への参拝路を造営するための土公祭。 11月18日、竹御所の御堂の立柱上棟式。 |
大倉というと、大倉幕府跡周辺と思うかもしれないが、当時は現在の十二所も大倉と呼ばれていた。 『吾妻鏡』には、源実朝が建てた大慈寺が大倉郷に建てられたことが記されている。 |
1234年(天福2年)7月27日、竹御所死去。 |
1235年(文暦2年)1月15日、五大堂の門の木作り始め。 1月21日、五大堂の総門建立。 この日の記録では、前年に安達義景の甘縄の土地を建立地と定めたが叶わず、幕府鬼門の地で毛利季光(大江広元の子)の領地内を建立地に定めた事が記されている・・・。 ※この辺が『吾妻鏡』の記録が統一されていないところで、前の記録では、甘縄と定めたのは4年前、大倉に定めたのは3年前。 2月3日、土公祭を開始。 土公祭は、土公神(どくじん)がいる場所の土を犯す時に陰陽師を招き、そのいかりを鎮めるための祭なのだとか。 2月4日、五大堂建設予定地内に、鎮守社の建設が決定。 2月10日、堂の建築開始。 3月5日、五大堂に鐘楼を建立。 3月18日、五大堂の開眼供養の日時を検討。 陰陽師らの占いによると4月11日が上吉、4月18日が下吉、5月5日が上吉だったのだとか。 検討の結果、5月5日に決定。 3月25日、北条泰時邸で話し合いが行われ、開眼供養の日時を6月9日の最吉に変更。 理由は、鶴岡八幡宮の端午の節句の神事と重なったため。 しかし、3月28日の話し合いでは・・・ 6月9日と決めた開眼供養の日は、頼経が外出するのに良くない日だったのだとか・・・ そのため6月29日とする。 6月19日、洪鐘の鋳造に失敗。 6月29日、鶴岡八幡宮の定豪が新御堂の平穏の祈祷。 午前8時頃には、鋳直した洪鐘が吊るされ、堂に五大明王像が安置された(不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)。 そして、午前9時半頃から開眼供養が行われている。 |
明王院は「飯盛山寛喜寺明王院五大堂」と呼ばれ、将軍祈願寺として壮麗を極めた。 寺号の寛喜寺は、寛喜3年に発願されたことによるらしい。 |
『吾妻鏡』によると、1235年(文暦2年)2月18日、定豪が一切経の供養を行っている。 一切経とは二万巻以上あるという経典全てのことで、当時は、そのうちの五千数百巻を書写して奉納することで功徳が得られると考えられていたのだという。 定豪による一切経の供養は、2月10日の五大堂上棟にあわせて行われたものと考えられている。 一説によると、このときの書写された一切経の校合については、北条泰時の要請によって鎌倉に入った浄土真宗開祖の親鸞が関与したといわれる。 校合とは書写したものに誤りがないか確認すること。 参考までに、鎌倉唯一の浄土真宗寺院である成福寺を開いたのは北条泰時の子で泰次。 泰次は、一切経の校合のため常盤の坊舎にいた親鸞に帰依して成仏の法名を授かったのだと伝えられている。 |
鎌倉市十二所32 0467(25)0416 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス 「泉水橋」下車徒歩5分 |
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