|
常盤は、北条泰時の要請によって「一切経」の校合に関わったという浄土真宗の開祖親鸞が逗留した地と伝えられている。 1309年(延慶2年)、親鸞の孫の唯善(ゆいぜん)は、大谷本廟の親鸞像と遺骨を持ち出して常盤に住み、唯善の庵は一向堂と呼ばれていたのだという(浄土真宗は一向宗とも呼ばれる。)。 親鸞の像は「常盤の真影」と呼ばれ、浄土真宗が広まっていったのだとか・・・。 かつて、鎌倉には浄土真宗の寺が多くあったが、戦国時代に後北条氏の弾圧を受けたため、 ほとんどの寺が鎌倉の外へ移転。 現在では、成福寺が唯一の浄土真宗の寺となっている。 親鸞が逗留した坊舎や唯善の一向堂があった正確な場所は不明だが、常盤には一向堂という地名が残されている。 |
成福寺は、親鸞に帰依した北条泰時の子泰次が開いた寺。 泰次は、常盤に滞在中の親鸞に帰依して、「成仏」の法名を授かり、聖徳太子の尊像を授けられたのだという。 鎌倉の御家人に中には、親鸞に帰依した者も多く、下総国の結城朝光や武蔵国の葛西清重も帰依し、朝光は称名寺(結城氏)を、清重は西光寺(葛飾区)を建立している。 |
小田原の真楽寺は、東国で布教していた親鸞が足を運んだという寺。 一切経の校合のために滞在していたのだとも・・・ |
北条泰時の要請によって鎌倉に入り「一切経の校合」に関わったという親鸞。 校合とは、書写したものに誤りがないか確認すること。 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺の唐院灌頂堂に納められている。 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・ 親鸞の東国での布教活動は、1214年(建保2年)からの20年と言われていることから、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。 書写と校合で1年ほどの期間を要すると考えると、1234年(文暦元年)頃からになるのだろうか・・・ 五大堂明王院の建設計画 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|