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真楽寺は聖徳太子にゆかりがあるという古刹。 鎌倉時代に親鸞が逗留したことで天台宗から浄土真宗に改宗され、寺号は親鸞に命名してもらったのだという。 本尊は阿弥陀如来。 本山は東本願寺(真宗本廟)。 |
親鸞お手植えとされる樹。 幕末の火災で損傷したが、ひこばえが成長したのが現在の木なのだとか。 小田原市の天然記念物。 |
1207年(建永2年)、後鳥羽上皇は専修念仏を停止(ちょうじ)し、法然を土佐国へ、親鸞を越後国へ流罪とした(承元の法難)。 1211年(建暦元年)、二人は赦免されるが法然は翌年京都で入滅。 その頃の親鸞の動向については不明だが、1214年(建保2年)には、関東での布教のため越後国から信濃国の善光寺、上野国を経て常陸国へ向かった。 東国での布教活動は20年間にわたって行われたといわれ、蓮如の孫顕誓(けんせい)が著した『反古裏書』には、常陸国下妻の三月寺小嶋に3年ばかり、稲田郷に10年ばかり滞在したのち、相模国足下郡江津の真楽寺や鎌倉に滞在したことが記されているらしい。 |
親鸞は、北条泰時の要請によって鎌倉に入り「一切経の校合」に参加したともいわれている。 校合とは、書写したものに誤りがないか確認すること。 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺の唐院灌頂堂に納められている。 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・ 親鸞がいつ帰洛したのか定かではないが、東国での布教活動が1214年(建保2年)からの20年だったと考えると、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。 |
御勧堂は親鸞が布教のために建てた草庵。 蓮如の謡曲『国府津(江津)』には、親鸞が7年の間、度々国府津に足を運び滞在していたことが詠まれている。 |
爪彫如来 (善光寺) |
成福寺 (鎌倉) |
善光寺の爪彫如来は、越後から東国布教に旅立った親鸞が、善光寺に百日間逗留して彫ったと伝えられる阿弥陀如来。 鎌倉の成福寺は、東国布教中の親鸞に帰依した北条泰時の子泰次が開いた寺といわれる。 泰次は、常盤の坊舎(鎌倉)に逗留していたという親鸞に拝謁して弟子となり「成仏」という名を授かったのだという。 下総国の結城朝光や武蔵国の葛西清重も親鸞に帰依し、朝光は称名寺(結城市)を、清重は西光寺(葛飾区)を建立している。 |
神奈川県小田原市国府津3-2-22 JR国府津駅より徒歩5分 |
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