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成福寺は、三代執権北条泰時の子泰次によって開かれた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。 泰次は、天台宗の僧として裏山の「亀の窟(かめのいわや)」で修行していたが、親鸞の教えを受け、成仏の名をもらい、天台宗から浄土真宗に改宗した。 木造聖徳太子像は、泰次が親鸞から与えられたものと伝わる。 鎌倉幕府が滅亡後は、住職であった十四代執権北条高時の弟(成円)が寺を追われたことから、70年あまり無住だったという。 映画俳優で、大船に暮らしていた笠智衆はこの寺に眠っている(参考:小津安二郎邸)。 |
開山 | 成仏 |
開基 | 成仏 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
茅葺きの山門は「四足門」(しそくもん)と呼ばれるもの。 四足門とは、二本の親柱の前後に、それぞれ二本の控柱のある門。 江戸時代初めに、山崎の領主の崇高院が自分の館の門を寄進したものといわれている。 崇高院は奥平氏の娘といわれているが詳しいことはわからない。 山崎には「お塔さま」と呼ばれる塔があって、崇高院の墓ではないかといわれている(参考:昌清院)。 |
浄土真宗の寺では、宗祖の親鸞が聖徳太子を敬っていたため、本尊の右側に安置されているという。 成福寺の聖徳太子像は、16才の太子の像で、親鸞が鎌倉に来た際に与えられたものだと伝えられている。 |
成仏は、三代執権北条泰時の子で、「沙門院泰次入道」と呼ばれていた。 天台宗を学び境内に残る「亀の窟」で修行を積んだと伝えられている。 |
東国で布教をしていた師の親鸞は、北条泰時の要請によって鎌倉に入り、「一切経の校合」に参加したといわれている。 校合とは、誤りがないかを照らし合わせる作業のこと。 このとき泰次は、常盤の坊舎に逗留していたという親鸞に拝謁して弟子となり「成仏」という名を授かったのだという。 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺の唐院灌頂堂に納められている。 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・ 親鸞がいつ帰洛したのか定かではないが、東国での布教活動が1214年(建保2年)からの20年だったと考えると、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。 |
小田原の真楽寺は、東国で布教していた親鸞が足を運んだという寺。 一切経の校合のために滞在していたのだとも・・・ |
鎌倉にも浄土真宗の寺がいくつかあったが、「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として小田原北条氏による迫害を受けたため、武蔵や三浦に移っていったのだという。 成福寺も例外ではなく、九世の宗全は、焼き討ちにあい、伊豆国の成福寺に逃れたと伝えられている。 |
伊豆の国市の成福寺は、八代執権北条時宗の子・正宗が再興した北条氏の菩提寺。 |
本願寺 (西本願寺) |
大谷本廟 |
成福寺は浄土真宗本願寺派。 本願寺は、浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)の創建に始まる。 徳川家康が教如に新たな寺地を寄進したことで、東西に分立している(参考:東本願寺)。 |
サルスベリ |
堰橋 (せいしく橋) |
成福寺の脇を通る古道は、旧鎌倉街道の「中の道」。 近くの水堰橋(せいしく橋)では、源頼朝の軍勢が隊列を整えたと伝えられている。 |
鎌倉市小袋谷2−13−33 0467(46)3020 北鎌倉駅より徒歩15分 |
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