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鎌倉:浄土真宗の寺

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親鸞
親鸞像
(京都:大谷本廟


 浄土真宗の開祖は親鸞。

 「悪業を重ねてきた悪人でさえ弥陀は救ってくれる」という浄土宗の開祖法然の教えに対し、

 「善人ですら弥陀は救ってくれる。

 まして、自分には何の力もないことを自覚してただ一心に弥陀の力にすがりついてくる悪人に対しては弥陀が第一に救いの手をさしのべてくれる」

 と説いた。

 鎌倉では成福寺が唯一の浄土真宗の寺。



成福寺
リンクボタン成福寺
(小袋谷)





〜親鸞と鎌倉〜

 1207年(建永2年)、後鳥羽上皇によって越後国流罪となった親鸞は、赦免後の1214年(建保2年)、関東での布教のため越後国から信濃国の善光寺、上野国を経て常陸国へ向かったといわれている。

 東国での布教活動は20年間にわたって行われたといわれ、蓮如の孫顕誓(けんせい)が著した『反古裏書』には、常陸国下妻の三月寺小嶋に3年ばかり、稲田郷に10年ばかり滞在したのち、相模国足下郡江津の真楽寺や鎌倉に滞在したことが記されているらしい。



〜一切経の校合に参加?〜

  親鸞は、北条泰時の要請によって鎌倉に入り「一切経の校合」に参加したともいわれている。

 校合とは、書写したものに誤りがないか確認すること。

 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。

 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺唐院灌頂堂に納められている。

 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・

 親鸞がいつ帰洛したのか定かではないが、東国での布教活動が1214年(建保2年)からの20年だったと考えると、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。

 成福寺を開基した北条泰次は、常盤の坊舎に逗留していたという親鸞に拝謁して弟子となり「成仏」という名を授かったのだという。



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