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1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝が最初に行ったことは、先祖源頼義が創建した由比若宮(鶴岡若宮)を小林郷北山に遷座することだった。 遷座した場所は、現在の若宮辺りだったと考えられている。 翌1181年(養和元年)には、浅草から大工を呼び寄せ、本格的な社殿の造営に着手し、さらにその翌年には参道「若宮大路」が整備され、その中央には「段葛」が築かれた。 放生池(源平池)の造営も同時に行われている。 1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失してしまうが、頼朝はすぐさま再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、現在のような上下両宮の姿となる。 現在の社殿は、1622年(元和8年)から始まった江戸幕府二代将軍徳川秀忠による鶴岡八幡宮の大改修時のもので国重文(寛永の大改修・1626年(寛永3年)完了)。 2019年(令和元年)11月、漆塗り等の工事が完了し、彩色豊かな社殿が蘇っている。 |
仁徳天皇(にんとくてんのう) 履中天皇(りちゅうてんのう) 仲媛命(なかのひめのみこと) 磐之媛命(いわのひめのみこと) |
神霊を他所に分霊して祀った社、又は、本宮の祭神の子を祀った社のこと。 鶴岡八幡宮は、石清水八幡宮の分霊を勧請した社だったので若宮と呼ばれていた。 上下両宮の姿となってからの若宮は、上宮(本宮)祭神の応神天皇の子仁徳天皇が祀られている。 履中天皇は仁徳天皇の子、仲媛命は応神天皇の皇后、磐之媛命は仁徳天皇の皇后。 |
神楽坂若宮八幡神社は、奥州を平定した頼朝が鶴岡八幡宮の若宮を勧請したのが始まりと伝えられる。 |
荏柄天神社の本殿は、徳川秀忠による大改修の際に鶴岡八幡宮から移築されたもの。 |
1186年(文治4年)、捕らえられて鎌倉に送られてきた源義経の愛妾静御前は、頼朝に所望され、1181年(養和元年)に頼朝が建てた若宮の回廊で舞を披露した。 静御前が舞った若宮回廊は、1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火で焼失。 2年後、その跡地には舞殿が造営されている。 |
社殿の横に聳える古木は、三代将軍源実朝が宋から苗を取り寄せて植えたものと伝えられる「ビャクシン」。 建長寺のビャクシンと並んで貴重な古木。 |
宋に憧れた将軍〜源実朝の唐船建造・渡宋計画〜 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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