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船岡山は、桓武天皇が平安遷都を決めた地といわれ、南に大極殿、その先に朱雀大路が通り、平安京を守護する玄武の小山と崇められた。 玄武は、北方を守護する水神。 平安京の造営に当たって測量基準点とされたともいわれる。 |
頂上付近には露頭した岩が見られるため、平安京の造営以前から神が天下る磐座(いわくら)として信仰されていたとする説がある。 |
船岡山は平安遷都に際して玄武の小山と占われ、船岡山を北の起点として平安京が造営されたのだという。 船岡妙見社には玄武大神が祀られている。 |
玄武は、一般的に脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿。 船岡山東麓にある玄武神社は、「亀宮」と呼ばれていたらしい。 |
清少納言は『枕草子』で「丘は、船岡・・・」と讃えている。 |
1156年(保元元年)に起きた保元の乱では、源義朝が父の為義と弟たちを船岡山で処刑している。 |
父為義と弟たちを斬った源義朝 |
船岡山の中腹にある建勳神社は、1869年(明治2年)に創建された織田信長を主祭神とする社。 |
船岡山の麓は紫野 |
紫野の名は、紫草(ムラサキ)の生えている野原だったことによるものといわれ、紫草の根(紫根)は高貴な人物のために栽培されていたのだという。 |
今宮神社 |
疫社 (今宮神社) |
994年(正暦5年)、都に疫病が流行すると、一条天皇は疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈る「紫野御霊会」 を営んだ。 1001年(長保3年)に疫病が流行した際には疫神を船岡山から遷して今宮社(今宮神社)が造営されている。 4月に行われる「やすらい祭」は紫野御霊会を起源とし、疫病の根源を疫社に封じ込める祭。 玄武神社・川上大神宮・上賀茂のやすらい祭とともに国の重要無形民俗文化財。 |
紫式部は紫野で生まれ育ったといわれ、紫の名は紫野に由来するとも・・・ |
雲林院 |
真珠庵 |
雲林院は、淳和天皇の離宮・紫野院を始まりとする寺で『源氏物語』〜賢木の巻〜に登場する。 かつては、雲林院の敷地だった大徳寺の塔頭真珠庵には「紫式部産湯の井」がある。 |
紫野には紫式部の墓もある。 室町時代に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』には、紫式部の墓所は雲林院白毫院の南と記されている。 |
985年(寛和元年)2月13日、前年に花山天皇に譲位して上皇となった円融院は、紫野で盛大な「子日の御遊」を催した。 清少納言の父清原元輔は、 「船岡に 若菜つみつつ 君がため 子の日の松の 千世をおくらむ」 と詠んでいる。 |
紫野には、賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に巫女として仕えた斎王の御所・賀茂斎院があった。 紫野にあったことから紫野斎院・紫野院とも呼ばれる。 賀茂祭(葵祭)は斎王が主宰していた賀茂神社の祭礼。 |
清少納言は『枕草子』に賀茂祭の還御の行列が素晴らしいと記している。 『枕草子』によると、紫野の雲林院や知足院が行列見物の名所となっていたらしい。 |
紫野には源義朝の別邸があったといわれ、源義経(牛若丸)の母常盤御前は紫野に住んでいたのだという。 そのため、義経ゆかりの牛若誕生井や常盤御前ゆかりの常槃井が残されている。 |
牛若誕生井 |
常槃井 |
常徳寺 |
光念寺 |
常徳寺は、清少納言の『枕草子』に登場する知足院を前身としている。 知足院は、常盤御前安産祈願の寺でもあった。 光念寺は、常盤御前の守り本尊「腹帯地蔵」を安置する寺。 |
大徳寺は京都でも有数の規模有する禅宗寺院。 塔頭の総見院は、織田信長追善のために建立され、信長をはじめ、長男信忠・次男信雄・四男羽柴秀勝・徳姫らの供養塔が建てられている。 |
千本ゑんま堂 |
廬山寺 |
船岡山南麓の千本ゑんま堂は、京都の三大埋葬地だった蓮台野の入口にある。 船岡山も葬送の地・埋葬の地だったのだという。 千本ゑんま堂のある地は千本通蘆山寺上ル。 紫式部の邸宅跡とされる蘆山寺は、かつて船岡山の南麓にあった。 |
京都市北区紫野北舟岡町 JR京都駅から市バス「船岡山」下車。 |
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