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藤原頼忠(ふじわらのよりただ)は、摂政太政大臣・藤原実頼の嫡男(次男)。 母は、藤原時平の娘。 924年(延長2年)誕生。 |
藤原忠平 |
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藤原保忠の養子となっていたが、924年(天暦元年)、兄の敦敏が早世したため実頼の嫡男となる。 967年(康保4年)、冷泉天皇が即位すると、父の実頼が関白に就任。 頼忠も関白の嫡男として昇進し、969年(安和2年)に円融天皇が即位した後も昇進を続け、970年(天禄元年)には権大納言、翌年には右大臣となる。 |
藤原師輔 |
安子 |
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972年(天禄3年)、関白・藤原伊尹が薨去すると、弟の兼通が関白に就任。 弟の兼家とは仲が悪く、従兄の頼忠を頼りにしていたという兼通は、977年(貞元2年)4月、頼忠を左大臣に任じ・・・ 同年10月、重病となり死期が迫ると、関白を頼忠に譲り、兼家を治部卿に左遷。 程なく薨去した。 翌978年(貞元3年)、頼忠は太政大臣となり、左大臣には源雅信が昇進。 兼通に冷遇されていた兼家も頼忠の勧めにより右大臣に昇進している。 同年、頼忠は次女の遵子を円融天皇に入内させている。 |
※ | 遵子の入内は天皇の外戚となるためだが、皇子は誕生しなかった。 |
984年(永観2年)、円融天皇が花山天皇に譲位し、東宮(皇太子)には兼家の次女・詮子が産んだ懐仁親王(のちの一条天皇)が立てられた。 頼忠は引き続き関白に留まってたが、伊尹の五男・義懐が外叔父として権勢を奮うようになる。 頼忠の権勢が不安定になる中、花山天皇が寵愛していた女御の藤原忯子を亡くし、出家を考えはじめる。 早く懐仁親王を皇位につけたい兼家は、三男・道兼に出家を勧めさせ、986年( 寛和2年)、元慶寺で出家させてしまう(寛和の変)。 権勢を奮っていた義懐は失脚し、懐仁親王が即位して一条天皇が誕生。 兼家が摂政となって朝政を掌握したことで、頼忠の時代は終わった。 989年(永延3年)6月26日薨去(66歳)。 関白太政大臣まで昇ったが、天皇の外戚となることはできなかった。 以後、摂関の座は兼家の子孫が独占することになる。 長男の公任は、藤原道長に仕えるが、権大納言までの出世に終わっている。 |
※ | 頼忠は、花山天皇にも娘の諟子を入内させていたが、やはり、皇子は誕生しなかった。 |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
『扶桑略記』や『愚管抄』によると、厳久という僧も寛和の変に大きく関わっている。 厳久は、懐仁親王の母・藤原詮子に従属していた僧なのだとか。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
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