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藤原遵子(ふじわらのじゅんし・のぶこ)は、関白太政大臣・藤原頼忠の次女。 母は、厳子(醍醐天皇の第三皇子・代明親王の娘)。 |
藤原頼忠 |
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978年(貞元3年)、円融天皇に入内し、982年(天元5年)に中宮(皇后)となる。 遵子が入内した年、藤原兼家の次女・詮子も円融天皇に入内していたが・・・ 遵子が皇后に定められた日、遵子の弟・公任は兼家の邸宅・東三条院の前で 「こちらの女御はいつ皇后になられるのか」 と言い放ち、詮子・兼家の恨みを買ったのだという。 984年(永観2年)、円融天皇が退位し花山天皇が即位。 その2年後、花山天皇は兼家の謀により山科の元慶寺で出家(寛和の変)。 詮子が産んだ一条天皇が即位した。 公任は、詮子の参内に供奉していたとき・・・ 「妊娠できない姉君はどちらに?」 と詮子の女房らに皮肉られたのだという 円融天皇の退位後、遵子は里邸の四条第で暮らし四条宮と呼ばる。 997年(長徳3年)に出家、1017年(寛仁元年)崩御(61歳)。 |
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