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道長から賀の歌を求められる紫式部 『紫式部日記絵巻』 |
1008年(寛弘5年)11月1日、一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」でのこと。 夜の酒宴で藤原道長の酔態ぶりを見た紫式部は、宴が終わった後に宰相の君(藤原豊子)とどこかに隠れようとしていたが・・・ そこへ、御帳台の東面の間に道長の子息頼通・教通たちや宰相中将(藤原兼隆)などが入って来て騒がしくなる。 二人とも御帳の後ろに隠れたのだが、道長に見つかり「和歌を一首詠めば許そう」と言われる。 いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば (八千歳の長きにわたって続く皇子の寿命を、いったいどうやって数えたらよいのでしょう) と紫式部が詠むと道長は、 あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も 数へとりてむ (わたしに鶴のような寿命があったなら、皇子の千年と続く寿命も数えることができるのだが) と返したのだとか。 |
紫式部公園の紫式部像のレリーフににもこの場面。 |
「五十日の祝い」は、生誕50日目の夜に行われていた平安貴族の儀式。 敦成親王(後一条天皇)の「五十日の祝い」が行われたのは藤原道長の邸宅・土御門殿(土御門邸)。 1008年(寛弘5年)9月11日、一条天皇の中宮・藤原彰子は土御門殿で敦成親王を出産。 11月17日、敦成親王は、母の彰子とともに内裏(一条院)に遷っている。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~ |
夜の酒宴後、紫式部とともに隠れた宰相の君(藤原豊子)は、藤原道綱の娘。 彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産すると、娘とともに乳母を務めている。 |
(参考) 御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長 |
「五十日の祝い」で柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えていた藤原実資。 紫式部が声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。 実資は道長に対しても毅然として反論していた政界のナンバー2。 |
『源氏物語』が文献上で初めて登場するは、「五十日の祝い」で藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ『紫式部日記』の記事。 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。 |
藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ |
めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ ちよもめぐらめ |
「祝宴の杯は望月と同じように欠ける事がなく、若宮の栄光も永遠に続くことでしょう」 この歌は、後一条天皇が生まれて七日目の祝(お七夜)に紫式部が詠んだもの。 有名な藤原道長の望月の歌は、この歌を真似て詠んだものという説がある。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
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越前武生を流れる河濯川に架かる七つの橋のレリーフ。 |
越前市東千福町20 武生駅から白山行き福鉄バス 「紫式部公園口」下車 市民バス市街地循環南ルート 「紫式部公園」下車 |
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