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昭陽舎(しょうようしゃ)は、内裏の後宮七殿五舎の一つで、女御などが居住していた。 庭に梨の樹が植えてあったことから「梨壺」とも呼ばれる。 村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、源順・紀時文・坂上望城・大中臣能宣・清原元輔が『後撰和歌集』の編纂を行った。 そのため、この5人は「梨壺の五人」と称された。 清原元輔は、一条天皇の皇后・藤原定子に仕えた清少納言の父。 円融天皇が東宮時代に居住したとも伝えられ、敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として定着した。 |
七殿五舎 |
弘徽殿 承香殿 麗景殿 登華殿 貞観殿 宣耀殿 常寧殿 |
飛香舎(藤壺) 凝花舎(梅壺) 昭陽舎(梨壺) 淑景舎(桐壺) 襲芳舎(雷鳴壺) |
1219年(承久元年)7月13日、後鳥羽上皇は、在京御家人の源頼茂が将軍職に就くことを企てたとして軍を派遣。 大内裏守護の任にあった頼茂は、在所だった昭陽舎に火をかけて自刃した。 頼茂は、三代将軍の源実朝が暗殺された後、将軍職を望んでいたが、朝廷と幕府は九条道家の子三寅を後継と決定したことから謀反を企てたのだという。 この合戦で、大内裏の主要殿舎が焼失。 幕府の内紛が原因で起こった大内裏焼失は、承久の乱の一因といわれる。 |
平安宮は、平安京の宮城。 |
内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
京都市上京区田村備前町 |
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