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鴻臚館(こうろかん)は、外交および海外交易の施設。 平安京の鴻臚館は、当初、朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。 弘仁年間(810-824)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。 おもに渤海国の使節団(渤海使)を迎賓。 渤海使は能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在し、都からの使者に伴われて鴻臚館に入ったのだという。 詩会などが行われたが、928年(延長6年)の渤海滅亡後は鴻臚館も衰微した。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
越前国の松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 |
紫式部の『源氏物語』~桐壺巻~には・・・ 桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が描かれている。 占いの結果、 「最高の位に上る相があるが、そうなると世が乱れる」 と出て、光源氏は親王とはされず臣籍降下となったのだとか。 また、澪標の巻には、「将来三人の子が生まれ、それぞれ帝・后・太政大臣になる」という結果だったことが描かれている。 三人とは、藤壺との間に生まれた冷泉帝、明石の君との間に生まれた明石の姫君(今上帝の中宮)、そして、葵の上との間に生まれた夕霧。 ただ、夕霧は左大臣になったところまでしか描かれていない。 |
越前国の松原客館は、渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたとういう説がある。 紫式部の父・藤原為時は、その交渉相手として国司に選ばれたとのだといわれる。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
為時の越前国赴任には紫式部も同行。 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
打毬(だきゅう)は、平安時代に端午節会の際に行われた宮中行事で、競馬や騎射の後に行われていた競技。 822年(弘仁13年)に渤海国の国使が豊楽殿で打毬を行い、その賭として嵯峨天皇から棉200屯を賜ったという記録がある。 紫式部の『源氏物語』~蛍の巻~で光源氏が六条院で催した「手結」(てつがい)は、「打毬」のことではないという説も。 |
多賀城碑は、陸奥国府や鎮守府が置かれていた多賀城に762年(天平宝字6年)に建立された古碑。 平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(渤海国)から多賀城までの距離が刻まれている。 |
京都市下京区西新屋敷揚屋町(角屋前) |
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