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おほかりし 豊の宮人 さしわけて しるき日かげを あはれとぞ見し |
「大勢いた豊明節会に参集した人々の中で、ひときわ目立っていた日陰の蔓を着けたあなたをしみじみと見ました」 五節の舞姫が宮中に参った1008年(寛弘5年)11月20日、目立って立ち働いていた弘徽殿女御に仕える右京(宰相中将)に日蔭の蔓が贈られたときに詠んだ歌。 日蔭の蔓は、 新嘗祭や大嘗祭などの神事で冠の巾子の根もとに付けるもの。 紫式部は、人目につかないように扇などを添えて歌を贈ったのだという。 紫式部が仕えていた中宮藤原彰子の御前の近くに五節の舞姫の控室があったらしい。 弘徽殿女御は藤原実成の姉・藤原義子。 五節の舞姫は、新嘗祭の豊明節会で五節の舞を舞う舞姫。 この年は実成も舞姫を献上していいる。 『紫式部日記』には、右の宰相中将が五節の舞姫に日陰の鬘の下賜を願い出て、中宮彰子から与えられたことが記されている。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ |
髪飾りに下げられた白い組紐が「日陰の鬘」(ひかげのかずら)。 画像は、紫式部ゆかりの石山寺に設置された「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」の展示パネルより。 |
五節の頃に出仕しない紫式部に弁の宰相の君(藤原豊子)が「残念です」と言ってきたので・・・ |
紫式部の歌~五節が過ぎた頃の藤原豊子との贈答歌~ |
弘徽殿跡 |
飛香舎跡 |
平安宮(大内裏)の弘徽殿は、内裏の後宮七殿五舎の一つで、後宮で最も格の高い殿舎。 一条天皇の女御だった藤原義子は弘徽殿を賜っていた。 『源氏物語』では、朱雀帝の母・弘徽殿女御や、その妹の朧月夜が居住している。 飛香舎は、清涼殿の近くにあった殿舎。 庭に藤が植えられていたことから「藤壺」と呼ばれ、一条天皇の中宮藤原彰子は藤壺を賜っていた。 『源氏物語』では、光源氏の初恋の人・藤壺が居所としている。 ただ、紫式部が宮中に仕えた頃は内裏が焼失してしまっていたため、一条天皇は一条院に遷御している。 |
唐崎神社は日吉大社の摂社で、古くから祓の霊場として知られた社。 『源氏物語』では、五節の舞姫だった源良清の娘が祓を行っている。 |
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