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平惟仲(たいらのこれなか)は、藤原兼家に仕え、藤原有国とともに「左右の眼」と称された公卿。 990年(正暦元年)、兼家が薨去すると、後継者として有国は次男の道兼を推挙していたが、惟仲は長男の道隆を推挙。 そのため、道隆の政権でも厚遇され、992年(正暦3年)には道兼の妻で一条天皇の乳母だった藤原繁子と結婚。 995年(長徳元年)、道隆が薨去すると、中関白家を見限り、藤原道長に接近して昇進を続けた。 1001年(長保3年)、大宰帥(大宰府の長官)として赴任。 1003年(長保5年)には従二位に叙されるが、翌1003年(長保6年)12月、宇佐神宮の宝殿を封じたことで訴えられ解任された。 その後、厠で倒れ腰を痛めたことをきっか病となり、1005年(寛弘2年)3月14日に大宰府で薨去(61歳)。 |
三条高倉にあった惟仲の邸宅は、996年(長徳2年)、一条天皇の中宮・藤原定子が脩子内親王を出産するときの行啓先となった。 そのため、定子に仕えていた清少納言も滞在したのだという。 999年(長保元年)、定子が敦康親王を出産するときは、惟仲の弟・生昌の屋敷が行啓先となったが・・・ 下級貴族の屋敷であったため、清少納言らの女房たちの車が門を入ることが出来ず、歩かされたのだという。 そのため、生昌は清少納言に物笑いの種にされたのだとか。 |
藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 藤原定子の懐妊と藤原道長の宇治遊覧 |
鳥戸野陵は、藤原定子の陵墓。 定子は、1000年(長保2年)12月15日、媄子内親王を出産するが、翌日に崩御。 葬儀を取り仕切ったのは、惟仲だったのだという。 |
藤原兼家の次女で一条天皇を生んだ藤原詮子は、その晩年、惟仲邸を御所としていたらしい。 定子が媄子内親王を生んだのも惟仲邸だったといわれ、詮子の勧めがあったのだという。 惟仲は定子の中宮大夫を兼務していた時があったので、あり得る話なのかもしれない。 詮子が惟仲邸を御所とした理由は、東三条院(東三条殿)が焼亡してしまったからで、その日は、定子が媄子内親王を生んだ12月15日だったという説がある。 ただ、詮子が崩御したのは藤原行成の三条家。 行成の『権記』によると、詮子は、1001年(長保3年)閏12月16日に惟仲邸から行成邸に移って出家し、22日に崩御している。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
藤原道長の長女で一条天皇の中宮・彰子に仕えた五節の弁は、惟仲の養女なのだという。 990年(永祚2年)頃に惟仲の養女となって五節の舞姫になっているらしい。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ |
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