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憂きことの まさるこの世を 見じとてや 空の雲とも 人のなりけむ |
「つらいことがまさっていくこの世を、もう見たくはないので、母(紫式部)は空の雲になってしまったのでしょうか」 紫式部は、1011年(寛弘8年)に越後国へ赴任した父藤原為時に手紙を書いていたのだという。 紫式部の死後、その手紙を見つけた娘の賢子(大弐三位)が詠んだのがこの歌。 1014年(長和3年)、為時は越後守を辞任して帰京。 その理由は、紫式部が亡くなったからという説がある。 紫式部が書いた為時への手紙は、死の直前に書いたものなのかもしれない。 |
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紫式部は、父を案じて詠んだ歌も遺していたのだという。 |
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越前守在任中に長男惟規も亡くしていた為時は、1016年(長和5年)、三井寺で出家。 三井寺の阿闍梨だった三男の定暹のもとで暮らしたかったという説が・・・ |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 幼い頃に母を亡くした紫式部は、ここで父為時に育てられ、藤原宣孝と結結した後もここに住んで、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を執筆したのだという。 |
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