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姉 |
母は、紫式部と同じ藤原為信の娘。 996年(長徳2年)、父の藤原為時が越前守として赴任する際、紫式部は同行しているが、姉は同行していないことから、幼くして亡くなったものと考えられている。 姉を亡くした紫式部は、従姉妹の筑紫の君を「姉君」と呼ぶようになり・・・ 妹を亡くしていた筑紫の君は紫式部を「中の君」と呼んでいたのだという。 |
藤原惟規(のぶのり) |
母は、紫式部の同母兄(弟とも)。 1011年(寛弘8年)、越後守となった父・為時とともに越後国に赴任するが赴任先で死去。 紫式部とともに為時から漢文の書物を学んだのだが・・・ 紫式部は暗誦できたが、惟規はそれができなかったことから、為時は紫式部が男だったらと残念がったのだとか。 斎王(賀茂斎院)の選子内親王に仕えていた斎院中将が恋人だったらしい。 |
藤原惟規~紫式部の弟:恋人は斎院中将~ |
藤原惟通(のぶみち) |
紫式部の異母弟。 常陸介となるが、1020年(寛仁4年)在任地で死去。 |
定暹(じょうせん) |
紫式部の異母弟(兄とも)。 1002年(長保4年)、一条天皇の生母・東三条院(藤原詮子)の追善供養に延暦寺の僧として出仕。 1011年(寛弘8年)には、一条天皇の大葬に御前僧として参列している。 その後、三井寺(園城寺)に居住するが、父の為時は1016年(長和5年)、三井寺で出家している。 |
※ | 紫式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えていた。 |
藤原信経室 |
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