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紫式部の母は、摂津守・藤原為信の娘。 名が不明のため、父親の名から藤原為信女と呼ばれる。 970年(天禄元年)頃に藤原為時と結婚して紫式部・藤原惟規らをもうけるが、子らが幼い頃に亡くなっているらしい。 惟規を出産した974年(天延2年)に亡くなったとも伝えられている。 大河ドラマ「光る君へ」では「ちやは」という名で登場。 紫式部の兄弟姉妹 |
藤原文範 |
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藤原為信女の祖父・文範は従二位中納言で公卿に列していた人物。 父の為信は常陸介や右馬頭を歴任した受領。 為信の兄弟・為雅は藤原倫寧の娘を妻とし、娘は花山天皇の外祖父・藤原義懐の妻となっている。 為雅の妻の姉妹には『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母や『更級日記』の作者・菅原孝標女の母がおり、兄弟の理能の妻は『枕草子』の作者・清少納言の姉妹。 紫式部は下級官人の家に生まれたが、父方の家筋も母方の家筋も文才に溢れる者が多かった。 |
公卿と受領~上級貴族と中・下級貴族~ |
大雲寺は観音霊場として繁栄した寺で、円融天皇の勅願寺となり、冷泉天皇の皇后宮・昌子内親王は観音堂を創建している。 開基は藤原為信女の祖父・藤原文範。 『源氏物語』(若紫の巻)で、光源氏と紫の上が出会った北山の「なにがし寺」は、大雲寺がモデルともいわれる。 |
「めぐりあひて・・・」の歌の「幼い頃からの友」は昌子内親王に仕えたころの友ではないかという説がある。 |
紫式部の歌~めぐりあひて:百人一首・新古今和歌集~ |
紫式部は紫野で生まれ育ったといわれ、大徳寺の塔頭真珠庵には「紫式部産湯の井」がある。 同じく塔頭の雲林院は、かつて天台宗の官寺として栄えた寺で『源氏物語』第十帖の「賢木」に登場する。 |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 母の亡き後、紫式部は父為時に育てられ、藤原宣孝と結結した後もここに住んで、一人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を執筆したのだという。 |
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