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藤原惟規(ふじわらののぶのり)は、藤原為時の子。 母は藤原為信の娘。 紫式部の同母弟(兄とも)。 974年(天延2年)頃の誕生。 紫式部の兄弟姉妹 |
幼少の頃、紫式部とともに父・為時から漢籍を学んだが、惟規は覚えが遅かったが、紫式部は難なく理解してしまったのだという。 その様子を見ていた為時は、紫式部が男子でない事を嘆いたのだとか。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部 |
幼い頃からの漢詩の才能があった紫式部は、一条天皇に評価され、中宮・彰子には『白氏文集』(白居易の詩文集)を講義している。 |
大晦日の夜、弁内侍(べんのないし)と内匠(たくみ)という女房と一緒にいた紫式部。 すると、仕えていた藤原彰子の部屋から悲鳴が。 3人で彰子の部屋にいってみると、2人の女房が身ぐるみをはがされていた。 警備の者たちは帰宅してしまい誰も来ない。 紫式部は、兵部丞を呼びにやらせるが、いるはずの兵部丞も帰ってしまっていたのだとか。 兵部丞とは惟規のこと。 |
盗賊の件で、紫式部に「情けないことこの上ない」と書かれた惟規だが・・・ 斎院中将のもとに通っていた惟規は、ある夜、名乗らなかったため警護の者に怪しまれ、門を閉ざされてしまう。 斎院中将の計らいで許されるが、その時に 「かみがきは きのまろどのに あらねども 名乗りをせねば 人とがめけり」 と詠んだのだという。 惟規は和歌に優れていたらしい。 |
惟規の恋人・斎院中将は斎院の長官・源為理の娘で、賀茂斎院(斎王)・選子内親王に仕えていた。 選子内親王は、清少納言が仕えた皇后・定子や、紫式部が仕えた中宮・彰子の後宮サロンに並ぶ大斎院サロンを主導していたが・・・ 惟規は斎院中将からの手紙を紫式部に見せているらしい。 『紫式部日記』によると、そこには斎院サロンの自慢が書かれていたため、紫式部は憤りを覚えたのだとか。 |
賀茂斎院は、賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に巫女として仕えた斎王の御所。 賀茂祭(葵祭)は斎王が主宰していた賀茂神社の祭礼。 |
兵部丞、六位蔵人、式部丞と出世し、1011年(寛弘8年)には従五位下という位に就いた惟規だったが・・・ 式部丞を辞し、父・為時の越後赴任に同行。 そして、同年、越後で没している。 惟規は、藤原貞仲の娘を妻とし、貞職という子があったようだが、詳細は不明。 |
藤原惟規辞世の歌~越後で亡くなった紫式部の弟~ |
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