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1011年(寛弘8年)正月、紫式部の父藤原為時が越後守に。 越後へは弟の惟規が同行したが・・・ 間もなく現地で亡くなった。 都にも 恋ひしき人の 多かれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ この歌は辞世といわれるもので『後拾遺和歌集』に採録されている。 一説によると、 為時が越後に下向した時、惟規は蔵人の職にあったため父とともに下向することができず、後から越前へ向かったのだが・・・ その途中で病気に。 越後に到着した時には危篤状態となり、亡くなってしまったのだという。 臨終の間際に、為時から筆と紙を渡された惟規が詠んだ辞世が上の歌なのだという。 「都にも恋しき人がたくさんいるので生きて帰りたい・・・」 惟規は、最後の「ふ」の字を書くことが出来ずに息絶えてしまったため、為時が付け足したとも伝えられている。 |
越後に下向するため都を発った惟規は、逢坂の関に着く頃には早くも都が恋しくなっていたのだという。 その時に詠んだのが・・・ 「逢坂の 関うちこゆる ほどもなく 今朝は都の 人ぞこひしき」 (まだ逢坂の関も越えていたいのに、もう都の人が恋しい) |
惟規を亡くした為時は、1014年(長和3年)、任期を残して越後守を辞任して帰京。 一説によると、紫式部が亡くなったことによる帰京ともいわれている。 その後、為時は三井寺で出家。 長男惟規と次女紫式部を相次いで亡くしたため、三井寺の阿闍梨だった三男の定暹のもとで暮らしたかったという説が・・・ |
紫式部の歌~越後国に赴任している父為時を案じた歌~ |
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