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大雲寺(だいうんじ)は、971年(天禄2年)、比叡山での法会の際に紫雲がたなびいた聖地に創建された寺。 開基は藤原文範。 比叡山から紫雲たなびく地に下りた文範は、そこが観音浄土であることを知らされたのだという。 開山は文範に招かれた真覚。 本尊は行基作という十一面観音。 980年(天元3年)には円融天皇の勅願所となり、985年(寛和元年)には冷泉天皇の皇后・昌子内親王が観音院を創建。 観音霊場として繁栄し、往時には四十九の堂塔伽藍が建ち並び、紫式部の『源氏物語』や『太平記』にも描かれた。 園城寺の有力な別院だった大雲寺は、寺門・山門の抗争による兵火で焼失を繰り返し、1136年(保延2年)に全焼。 その後も園城寺の有力寺院として栄え、度重なる兵火による焼失と再建を繰り返してきたが、1985年(昭和60年)の大雲寺事件後に寺地が失われた。 現在は、塔頭宝塔院の旧地に移転して仮本堂が営まれている。 |
大雲院の文慶は、藤原定子が産んだ一条天皇の第二皇女・媄子内親王の病気平癒の祈祷を行い権律師となった。 観音院の勝算は、藤原道長の娘・彰子の安産祈願の五壇の御修法で不動明王を担当している。 |
藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部 藤原彰子の里下がりと安産祈願の五壇の御修法 |
行基作とされる本尊の十一面観音は、大和国長谷寺の十一面観音と同じ木で造立されたのだという。 大和国長谷寺は聖武天皇の勅命により、東大寺開山の良弁の弟子・徳道が開いた観音霊場で、本尊の十一面観音は、徳道が楠の霊木で造立させたもの。 その開眼供養の導師をつとめたのが行基。 この時、行基は同じ霊木を使って聖武天皇の姿を写した像を造立したのだと伝えられている。 この像が大雲寺に伝わる十一面観音像。 大和国長谷寺の十一面観音と同じく、右手に錫杖を左手に蓮華の花瓶を持つもの。 |
※ | 鎌倉の長谷寺の十一面観音も同じ霊木で造立されたと伝えられている。 |
大雲寺を創建した藤原文範は、紫式部の曾祖父にあたる。 文範→為信→娘→紫式部。 紫式部の『源氏物語』(若紫の巻)で、光源氏と紫の上が出会った北山の「なにがし寺」は、大雲寺がモデルともいわれる。 |
紫式部は、観音院を創建した昌子内親王に仕えていたという説がある。 そして、「めぐりあひて・・・」の歌の「幼い頃からの友」は昌子内親王に仕えたころの友ではないかという説がある。 |
紫式部の歌~めぐりあひて:百人一首・新古今和歌集~ |
正面に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左に地蔵菩薩が刻まれている。 |
万里小路藤房(藤原藤房)は、後醍醐天皇に仕えた公卿。 後醍醐天皇の倒幕計画に参画し、建武の新政でも要職をになったが、世を儚み出家。 その後の動向は不明。 |
石座神社は、880年(元慶4年)以前から岩倉の地に鎮座しているという社。 石座(いわくら)は、地名の岩倉の由来となったといわれる。 971年(天禄2年)、大雲寺の鎮守社として現在地に勧請されたのだという。 |
京都市左京区岩倉上蔵町305 |
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