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紫式部の没年については、長和年間(1012年~1016年)とする説が有力のようだが・・・ 藤原実資の『小右記』の記録などからの1019年以降とする説、 娘の賢子(大弐三位)が親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となった1025年(万寿2年)以降とする説、 藤原彰子の東北院が完成した1030年(長元3年)以降とする説などがあって判っていない。 ただ、紫式部は『源氏物語』に冷泉帝が光源氏を准太上天皇としたことを書いている。 その事が没年の手掛かりになるのか考えてみた・・・ |
「太上天皇になずらふ御位」 |
『源氏物語』に登場する冷泉帝は桐壺帝の第十皇子で母は藤壺中宮ということだが・・・ 実は光源氏と藤壺との不義の子。 薄雲の巻では、藤壺が崩御した後、出生の秘密を知った冷泉帝が父である光源氏に譲位をほのめかしている。 しかし光源氏は固辞。 その後、冷泉帝は光源氏の養女となっていた斎宮女御を中宮に、光源氏を太政大臣とした(少女の巻)。 そして、藤裏葉の巻では、四十の賀を控えた光源氏を「太上天皇になずらふ御位」とするなどの孝行を尽くしている。 「太上天皇になずらふ御位」とは、太上天皇に准じた待遇ということ。 「准太上天皇」とも呼ばれるが、正式な地位や称号ではない。 「太上天皇」とは、譲位した天皇の尊号で「上皇」という略称で呼ばれた。 |
歴史上で准太上天皇となった 敦明親王 |
歴史上で准太上天皇となった人物は・・・ 三条天皇の第一皇子・敦明親王のみ。 敦明親王は、1016年(長和5年)、三条天皇が後一条天皇(敦成親王)に譲位すると、東宮(皇太子)に立てられるが・・・ 藤原道長の圧力により1017年(寛仁元年)に東宮を辞退。 その見返りに与えれたのが小一条院の院号だった。 「院」とは太上天皇のことさすが、小一条院の院号を受けたということは・・・ 太上天皇に准ずる待遇(准太上天皇)となったということ。 |
紫式部は、 敦明親王の件を知っていた? |
紫式部の没年に戻ると・・・ 紫式部が「敦明親王が太上天皇に准じた待遇を受けたこと」を参考にして、 『源氏物語』の「光源氏の太上天皇になずらふ御位」の事を書いたとするなら、 少なくとも1017年まで生存していたことになる。 ただ・・・ 『紫式部日記』によると、1008年(寛弘5年)、藤原彰子は『源氏物語』と思われる冊子を作って一条天皇に献上している(参考 御草子作り)。 したがって、1008年には『源氏物語』の大部分が完成していたものと考えらえる。 ということは、藤原道長が『源氏物語』を参考にして敦明親王を准太上天皇としたということもあるのかも。 実は・・・ 991年(正暦2年)に藤原詮子が東三条院の院号を与えられ、史上初の「女院」となったことを紫式部は知っている。 これを男性に置き換えて、光源氏の事として書いたとするならば、1017年に生存していたかどうかを語るのは難しいのかも。 |
1014年(長和3年)没説 |
1014年(長和3年)、紫式部の父藤原為時が越後守を辞任して帰京。 その理由は・・・ 紫式部が亡くなったからという説がある。 |
紫式部の歌~越後国に赴任している父為時を案じた歌~ 紫式部の歌~山桜の歌:人生は桜の盛りほどにはかない~ 紫式部の歌~小少将の君の生前の手紙を見つけて~ |
紫式部の没年は不明だが、室町時代に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』によると、晩年は雲林院百毫院で過ごしたのだという。 紫野の雲林院の近くには紫式部の墓がある。 |
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