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「和田塚」は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられている。 かつて、この辺りには古墳があって「向原古墳群」と呼ばれ、その中に采女塚と無常堂塚があった。 塚には多くの五輪塔が転がっていたといわれている。 1889年(明治22年)の道路改修工事によって采女塚が壊され、続いて、1892年(明治25年)には無常堂塚の一部が削られた。 無常堂塚からは多くの人骨が発見され、中には刀を握ったままの骨も発見されたという。 このような経緯から、その人骨が和田合戦の戦死者のものだという話となり、無常堂塚を「和田塚」と呼ぶようになったといわれている。 1909年(明治42年)、塚の上に「和田一族戦没地」と記された碑が建てられた。 |
1213年(建暦3年)2月の泉親衡の謀反をきっかけとして起こったのが和田合戦。 謀反の加担者の中に侍所別当の和田義盛の子や甥が含まれていたことで、義盛と執権北条義時とが対立。 義時から度重なる屈辱を受けた義盛は、5月2日に挙兵するが、二日間にわたる激戦の末、由比ヶ浜で最期を遂げた。 この合戦では、鎌倉十橋の一つ琵琶橋付近で激戦が繰り広げられていることから、和田塚辺りも激戦地となったと考えられている。 鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の先にある首塚からも多くの人骨が発見されている。 |
琵琶橋付近では、幕府方宍戸家政と朝比奈義秀の激戦が繰り広げられた。 家政は、八田知家の四男で、朝比奈義秀との戦いで討ち死にした。 (参考:若宮大路の歴史散策) |
来福寺は名越に創建された和田義盛の菩提寺。 和田合戦後、和田の里(初声)に移転したのだという。 |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 |
和田合戦〜北条義時の徴発と三浦義村の裏切り〜(okadoのブログ) |
江ノ電の和田塚駅から徒歩すぐ。 (由比ヶ浜方面) |
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